こちらの謎は正史『三国志』における孫邵(そんしょう)の扱いに関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 呉(ご)の初代丞相(じょうしょう)の孫邵について、正史『三国志』の本文には没年に関する簡単な記述しかありません。 「[呉の黄武(こうぶ)]四(225)年夏五月、丞相孫邵卒」 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 彼の人となりや事跡については、裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』に書かれています。 「呉録曰、邵(孫邵)字長緒(ちょうしょ)、北海(ほっかい)人、長八尺(はっせき)」 「為孔融(こうゆう)功曹(こうそう)、融(孔融)曰、廊廟才也。
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