孫氏に関するshiromitsuのブックマーク (158)

  • 正史『三国志』における孫邵(そんしょう)の扱いについて

    こちらの謎は正史『三国志』における孫邵(そんしょう)の扱いに関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 呉(ご)の初代丞相(じょうしょう)の孫邵について、正史『三国志』の文には没年に関する簡単な記述しかありません。 「[呉の黄武(こうぶ)]四(225)年夏五月、丞相孫邵卒」 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉) 彼の人となりや事跡については、裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』に書かれています。 「呉録曰、邵(孫邵)字長緒(ちょうしょ)、北海(ほっかい)人、長八尺(はっせき)」 「為孔融(こうゆう)功曹(こうそう)、融(孔融)曰、廊廟才也。

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    shiromitsu 2020/12/05
    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する謎
  • 孫奮(そんふん)の没年について

    こちらの謎は孫奮(そんふん)の没年に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 孫奮は呉(ご)の孫権(そんけん)の五男ですが、没年はイマイチはっきりしません。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫奮伝〈そんふんでん〉)には以下のような記事があります。 「[呉の]建衡(けんこう)二(270)年、孫皓(そんこう。孫晧)左夫人(さふじん)王氏(おうし)卒。皓(孫晧)哀念過甚、朝夕哭臨、数月不出、由是民間或謂皓(孫晧)死、訛言奮(孫奮)與上虞侯(じょうぐこう)奉(ほう。孫奉〈そんほう〉)当有立者」 「奮(孫奮)母仲姫(ちゅうき)墓在豫章(よしょう)、豫章太守(よしょうたいしゅ)張俊(ちょうしゅん)疑其或然、

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    shiromitsu 2020/12/05
    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する謎
  • 孫韶(そんしょう)の姓について

    こちらの謎は孫韶(そんしょう)の姓に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫韶伝〈そんしょうでん〉)の冒頭に以下のような記述があります。 「孫韶字公礼(こうれい)。伯父河(孫河〈そんか〉)、字伯海(はくかい)、姓兪氏(ゆし)、亦呉人(ごひと)也。孫策(そんさく)愛之、賜姓為孫、列之属籍」 『三国志』(呉書・孫韶伝) 孫韶の伯父の孫河はもともと兪河(ゆか)といい、孫策に信愛されて孫姓を賜り、その一族に加えられたという。孫韶の父母については記事がないのですけど、伝の記述を見れば孫韶も兪韶(ゆしょう)だったのでしょう。 伯父の兪河が孫策に気に入られて孫河になった

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    shiromitsu 2020/12/05
    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する謎
  • 呉(ご)の孫晧(そんこう)の没年について

    こちらの謎は呉(ご)の孫晧(そんこう)の没年に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 孫晧は呉の天紀(てんき)4(280)年に晋軍(しんぐん)の総攻撃を受けて降伏し、後に晋都の洛陽(らくよう)へ移りました。そしてその地で亡くなったのですが、没年はイマイチはっきりしません。 「[晋の太康(たいこう)]五(284)年、皓(こう。孫晧)死于洛陽」 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝〈そんこうでん〉) 「呉録曰、皓(孫晧)以[晋の太康]四(283)年十二月死、時年四十二、葬河南県(かなんけん)界」 『三国志』(呉書・孫晧伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)

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    shiromitsu 2020/12/05
    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する謎
  • 呉(ご)の孫策(そんさく)の諡号(しごう)について

    こちらの謎は呉(ご)の孫策(そんさく)の諡号(しごう)に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 呉の孫権(そんけん)の兄である孫策は、建安(けんあん)5(200)年に26歳の若さで亡くなりました。 孫策の跡を継いだのは息子の孫紹(そんしょう)ではなく弟の孫権でしたが、その孫権が黄龍(こうりょう)元(229)年に呉の帝位に即きます。 このとき孫権は、亡き父の孫堅(そんけん)を追尊して武烈皇帝(ぶれつこうてい)の諡号を贈り、同じく亡き母の呉氏(ごし)には武烈皇后(ぶれつこうごう)の諡号を贈りました。 さらに兄の孫策にも諡号を贈りましたが、それは帝号ではなく長沙桓王(ちょうさかんおう)という王号

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    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する謎
  • 呉(ご)の孫堅(そんけん)の没年について

    こちらの謎は呉(ご)の孫堅(そんけん)の没年に関するものです。 このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。 ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。 概要 正史『三国志』において、呉の孫堅の没年は初平(しょへい)3(192)年だったと書かれています。 「初平三(192)年、術(じゅつ。袁術〈えんじゅつ〉)使堅(孫堅)征荊州(けいしゅう)、撃劉表(りゅうひょう)」 「表(劉表)遣黄祖(こうそ)逆於樊(はん。樊城〈はんじょう〉)、鄧(とう。鄧城〈とうじょう〉)之間」 「堅(孫堅)撃破之、追渡漢水(かんすい)、遂囲襄陽(じょうよう)、単馬行峴山(けんざん。襄陽郊外にある山)、為祖(黄祖)軍士所射殺」 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝〈そんけんでん〉) また、「孫

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    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する謎
  • 「呉(ご)の孫氏(そんし)の謎」収録テーマ一覧

    「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じた、呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関するテーマの一覧です。

    「呉(ご)の孫氏(そんし)の謎」収録テーマ一覧
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    shiromitsu 2020/12/05
    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する謎
  • 孫冀(そんき)

    【姓名】 孫冀(そんき) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 第120回で初登場。 【正史】 登場せず。 創作された人物、呉(ご)の孫晧(そんこう)配下の左将軍(さしょうぐん) 父母ともに不詳。 『三国志演義』(第120回)には以下のようにある。 「孫晧から晋(しん)の襄陽(じょうよう)攻めを命ぜられた鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の陸抗(りくこう)が、晋の都督(ととく)の羊祜(ようこ)と対峙(たいじ)した」 「対峙を続けるうち、陸抗と羊祜は敵ながら互いの力量を認め合うようになっていたが、そこへ孫晧から進軍を促す詔(みことのり)が届く」 「陸抗は孫晧へ上奏文を届けさせ、今は晋軍を討伐するべきではないと、言葉を尽くして説いた」 「しかし孫晧は上奏文を読むと激怒。陸抗が晋と通じていると決めつけ、彼の指揮権を剝奪したうえ司馬(しば)に降格させ

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    shiromitsu 2020/05/19
    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する個別記事
  • 孫倫(そんりん)

    【姓名】 孫倫(そんりん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)配下の部将 父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。 241年5月、孫倫は朱然(しゅぜん)とともに5万の軍勢をひきい、魏(ぎ)の樊城(はんじょう)を包囲した。 このとき全琮(ぜんそう)が芍陂(しゃくひ)へ、諸葛瑾(しょかつきん)と歩騭(ほしつ)が柤中(そちゅう)へ、それぞれ進攻した。 全琮が敗れた後、なおも呉軍は樊城を厳しく包囲していたが、翌6月、魏の太傅(たいふ)の司馬懿(しばい)が諸軍をひきいて駆けつけると敗走した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く干宝(かんぽう)

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    shiromitsu 2020/05/19
    呉(ご)の孫権(そんけん)を中心とした一族に関する個別記事
  • 孫楞(そんりょう)

    【姓名】 孫楞(そんりょう) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~255年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫亮(そんりょう)配下の将軍 父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 255年2月、孫楞は左将軍(さしょうぐん)の留賛(りゅうさん)や将軍の蔣脩(しょうしゅう)らとともに、魏(ぎ)の諸葛誕(しょかつたん)の別動隊をひきいた蔣班(しょうはん)と菰陂(こひ)で戦って敗れた。 この際、孫楞は留賛や蔣脩らともども殺害されたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 孫楞の名が正史『三国志』に見えるのは、上で挙げた1か所だけなので、詳しい経歴などはわかりませんでした。

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫嘿(そんもく)

    【姓名】 孫嘿(そんもく) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫亮(そんりょう)配下の中書令(ちゅうしょれい) 父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 253年4月、諸葛恪(しょかつかく)が魏(ぎ)の合肥新城(ごうひしんじょう)を包囲する。しかし疫病が大流行したため、呉の兵士の大半が死んでしまった。 同年8月、諸葛恪は帰還を促す孫亮の詔(みことのり)を受けて、ようやく軍勢を返す。 孫嘿は、諸葛恪が都に帰るなり呼び出され、「なぜ詔をでっちあげてまで帰還を促したりしたのか」と激しく叱責された。 すると孫嘿は、病を理由に屋敷に引き籠もってしまったという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのか

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫茂(そんぼう)

    【姓名】 孫茂(そんぼう) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)配下の部将 父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。 215年、孫茂は呂岱(りょたい)の指揮の下、劉備(りゅうび)に支配されていた長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)の3郡攻略に部将として参加した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 この孫茂の名が正史『三国志』に見えるのは、上で挙げた1か所だけなので、詳しい経歴などはわかりませんでした。

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫布(そんふ)

    【姓名】 孫布(そんふ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)配下の中郎将(ちゅうろうしょう) 父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。 231年、孫布は揚州(ようしゅう)へ使者を遣り、魏(ぎ)に降伏したい旨を伝えたうえで、迎えの軍勢を出してほしいと頼む。だが、これは計略だった。 魏の満寵(まんちょう)は偽りと見抜いたが、揚州刺史(ようしゅうしし)の王淩(おうりょう)には見抜けなかった。 ちょうど満寵は曹叡(そうえい)に召されて入朝しなくてはならなかったため、留府長史(りゅうふちょうし)に、王淩から要請があっても兵を与えないよう命じておいた。 王淩は兵を要求したものの認められず、やむなく配下の督将(とくしょう)に700の歩騎を付けて孫布を迎えに行かせた。孫布が夜に紛れて襲撃

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫耽(そんたん)

    【姓名】 孫耽(そんたん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫休(そんきゅう)配下の将軍 父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 258年9月、孫亮(そんりょう)が実権を握っていた孫綝(そんりん)の誅殺に失敗すると、ほどなく孫綝の意向によって廃位され、会稽王(かいけいおう)に貶(おと)された。このとき孫耽は孫綝の命を受け、孫亮を会稽まで護送したという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。 この孫耽の名が正史『三国志』に見えるのは、上で挙げた1か所だけです。孫綝から孫亮の護送を命ぜられるくらいですから、それなりに活躍した将軍なのでしょう。

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫盛(そんせい)B ※孫権(そんけん)配下の将軍

    【姓名】 孫盛(そんせい) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫権(そんけん)配下の将軍 父母ともに不詳。呉の孫権の一族なのかは不明。 222年、江陵(こうりょう)が魏(ぎ)の曹真(そうしん)・夏侯尚(かこうしょう)・張郃(ちょうこう)らの軍勢に包囲された。 このとき孫盛は孫権の命を受け、1万の軍勢をひきいて長江(ちょうこう)の中洲(なかす。百里洲〈ひゃくりす〉)へ向かった。 そして四方に防御壁を備えた砦を築き、江陵城に立て籠もる朱然(しゅぜん)に外部から助勢しようとした。 しかし張郃の軍勢が中洲に攻め寄せると、孫盛は支えきれずに退却した。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 この孫盛の名が正史『三国志』に見えるのは、上で挙げた魏との戦い絡みの場面だけなので

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫紹(そんしょう)A ※呉(ご)の朝儀の制定に携わったひとり

    父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・張昭伝〈ちょうしょうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』によると、孫紹は張昭・滕胤(とういん)・鄭礼(ていれい)らとともに、周(しゅう)や漢(かん)の時代の礼制から採り入れて、呉における朝廷の儀礼制度を制定したという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 この孫紹は孫邵(そんしょう)と同一人物ではないかと感じました。同様に鄭礼というのも鄭札(ていさつ)と同一人物ではないでしょうか?

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫邵(そんしょう) ※あざなは長緒(ちょうしょ)

    【姓名】 孫邵(そんしょう) 【あざな】 長緒(ちょうしょ) 【原籍】 北海郡(ほっかいぐん) 【生没】 163~225年(63歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の初代丞相(じょうしょう) 父母ともに不詳。 初め孫邵は孔融(こうゆう)の下で功曹(こうそう)を務め、朝廷に立つべき人材であると称賛された。後に江東(こうとう)の劉繇(りゅうよう)のもとへ身を寄せ、やがて江東を支配した孫権(そんけん)に仕えた。 孫邵が、朝廷に公式の使者を遣わして献上品を奉るよう勧めると、すぐに孫権はこの意見を容れた。孫邵は廬江太守(ろこうたいしゅ)に任ぜられ、車騎長史(しゃきちょうし)に昇進した。 219年に孫権が驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任ぜられると、孫邵は張昭(ちょうしょう)や鄭札(ていさつ)らとともに、呉における儀礼制度の制定にあたった。 222年には丞相

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫諝(そんしょ)

    【姓名】 孫諝(そんしょ) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~263年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)配下の交趾太守(こうしたいしゅ) 父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 263年5月、交趾郡の役人だった呂興(りょこう)らが反乱を起こした際、交趾太守を務めていた孫諝は殺害された。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)によると、呂興らの反乱が起きる前、孫諝は郡内に徴用令を出し、優れた職人を1千余人も選んで建業(けんぎょう)へ送っていました。 その後、察戦(さっせん)の役人が交趾郡へやってくると、人々はまた徴用されるのではないかと恐れます。 呂興らはこうした動揺に乗じて兵士や民衆を扇動し、異民族も誘い込んで反乱を起こしたとの

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫遵(そんじゅん)

    【姓名】 孫遵(そんじゅん) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 呉(ご)の孫晧(そんこう)配下の公安督(こうあんとく) 父母ともに不詳。呉の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 272年8月、西陵督(せいりょうとく)の歩闡(ほせん)が晋(しん)に降ると、晋の車騎将軍(しゃきしょうぐん)の羊祜(ようこ)らが軍勢をひきいて江陵(こうりょう)へ攻め寄せた。 このとき晋の巴東監軍(はとうかんぐん)の徐胤(じょいん)が水軍をひきいて建平(けんぺい)に、荊州刺史(けいしゅうしし)の楊肇(ようちょう)が西陵に、それぞれやってきた。 公安督の孫遵は陸抗(りくこう)の命を受けて、長江(ちょうこう)の南岸を移動しながら羊祜の侵出を防ぎ止めたという。 管理人「かぶらがわ」より 登場箇所が少ないためコメントしにくいです。 孫

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    shiromitsu 2020/05/19
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  • 孫高(そんこう)

    【姓名】 孫高(そんこう) 【あざな】 ? 【原籍】 ? 【生没】 ?~?年(?歳) 【吉川】 登場せず。 【演義】 登場せず。 【正史】 登場人物。 孫翊(そんよく)配下の帳下(ちょうか。旗) 父母ともに不詳。呉(ご)の孫権(そんけん)の一族なのかは不明。 204年、孫高が長く仕えていた丹楊太守(たんようたいしゅ)の孫翊が、嬀覧(きらん)と戴員(たいうん)の意を受けた辺鴻(へんこう。辺洪)に殺害された。 嬀覧は役所に居座り、孫翊の嬪妾(そばめ)や侍女に加え、の徐氏(じょし)まで自分の物にしようとした。 徐氏は月末の法事を理由に時間稼ぎをする一方、この間に孫高や傅嬰(ふえい)らを呼び、嬀覧誅殺の助力を頼んだ。 やがて、徐氏の使いから喪が明けたことを伝えられた嬀覧が、のこのこと部屋を訪ねると、徐氏の声に応じて孫高と傅嬰が飛び出し、見事に嬀覧を討ち取った。ほかの者も時を移さず、別の場所で戴

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    shiromitsu 2020/05/19
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