アニメーションには、原作のマンガにはない小さなエピソードがいくつか散りばめられているが、中でも印象に残るのは、晴美とすずのやりとりだ。 たとえば、19年9月、まだまだ暑い畑で、すずと晴美が何かを収穫しており、晴美は黄色い花を手にしている。次のカットでは、カボチャに墨で顔を描いたものが本棚の前に置かれており、そばに添えられた黄色い花が色鮮やかなので、短いカットながら印象に残る。おそらく顔を描いたのはすず、花を持ってきたのは晴美で、この髪に花をかざしたような剽軽なカボチャは、二人の合作なのだろう。 もう一つは20年3月19日、空襲後の短いエピソード。呉港への爆撃で海には魚がたくさん浮いている。「その日、呉では魚がようけ獲れた」。すずと晴美は向かい合って皿に置かれた配給の小魚を絵に描いている。晴美が言う。「ちっさ!」。その短い形容の仕方は、かつてすずが友達に言われていた「短かー」や従姉妹に言われ
こまい、ということばは懐かしい。 子供の頃、呉出身の両親の知り合いたちと久し振りに会うと決まり文句のように「おおきゅうなったのう」「こまいころようあそんだのう」と言われた。「こまい」は、背丈の小さい人にも小さいものにも使う呉弁だけれど、わたしが印象に残っているのはこの「こまいころようあそんだのう」だ。たいていはそのあとに「おぼえとるか?」という問いがきた。わたしはなんとなく面映ゆく、居心地が悪くなった。その居心地の悪さというのは、自分がその人と遊んだことを覚えていないバツの悪さもさることながら、自分の外見の成長が、もう「こまいころ」のようには遊べないという感慨を相手にもたらしていることからきていたのだと、今にして思う。 そうした思い出のせいだろうか、「こまい」ということばには、ただ小さいというよりは、どこか「成長によって失われてしまう子供の属性」がちょっぴり含まれている気がする。実際、誰か
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