ブックマーク / manba.co.jp (21)

  • 『二つの「この世界の片隅に」』extra | マンバ通信

    柄 闇市の帰りにいつの間にか帰り道がわからなくなってしまったすずは、遊郭の中に迷い込み、そこで初めてリンに出会う。初対面の二人は、原作のマンガ版で、ちょっと気になる会話を交わす。 リン「あんたもよそから来んさったんじゃろ 広島?」 すず「ほうですけど 何で!?」 リン「うちも広島に居ったんよ そんとな柄の入った着物を持っとったけえ なんとのうね」 リンは、古いよそいきをアッパッパに直したすずの服を指でさして「広島で流行った柄なんじゃろか」と不思議がる。 (『この世界の片隅に』中巻22ページ ) 初めて読んだときは、さして不思議にも思わず読み過ごした会話だが、読み終えてから改めて『大潮の頃』を見直していて、ようやくあっと気がついた。 すずのアッパッパは、すずが子供の頃、草津のおばあちゃんが仕立ててくれた着物なのだ。そして、着物の布は少し余ったらしく、おばあちゃんの道具箱に収められている。 (

    『二つの「この世界の片隅に」』extra | マンバ通信
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    sinopyyy 2017/10/11
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(18)「バケツの宿」(最終回) | マンバ通信

    原作とアニメーションの相違の中でも、もっとも気になる箇所の一つが「水鳥の青葉」の中でのすずの台詞だ。原作ですずがリヤカーを押しながら刈谷さんに語りかけることばは次のようなものだ。 生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居ってものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある うちはその記憶の器としてこの世界に在り続けるしかないんですよね (下線は筆者) 原作では、この「記憶の器」ということばが大きな鍵となっている。それが何を意味するかを考えるために、花見の頃、リンが桜の樹の上ですずに言った次のことばを思い出してみよう。 ねえすずさん 人が死んだら記憶も消えて無うなる 秘密は無かったことになる それはそれでゼイタクなことかもしれんよ 自分専用のお茶碗と同じくらいにね (下線は筆者) リンのことばは、記憶=秘密の器としての人の生のことを語ろうとしている。リンにとって、「記憶」と「秘密」とが結び

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(18)「バケツの宿」(最終回) | マンバ通信
    sinopyyy
    sinopyyy 2017/05/25
    ついに最終回!
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(17)風呂敷包み | マンバ通信

    「この世界の片隅に」でわたしたちがまず引き込まれるのは、幼いすずが船を下り、風呂敷を背負い直す場面だろう。わたしは原作を読んだときにまずこの小さな所作を描いた3コマに引き込まれたのを覚えている。 【図1】 1コマ目、すずは力まかせによっこらせと背負うのではなく、固い壁に風呂敷を壁に押し当てるという謎めいた所作をする。しかし2コマ目で、その所作にはちゃんと訳があって、風呂敷をちょうど肩に来るような高さに押し当てていたのだと分かる。なぜならそのコマでは、すずが自分の背中と壁とで風呂敷を落ちないようにはさんでおり、風呂敷の布の余った部分がちゃんと首の前に来て、すずはちょっとだけ壁に体重を乗せて(このコマの、足の位置の描き方が実に巧みで、胴体がわずかに壁側に押しつけられている感じが出ている)、落ち着いて風呂敷を結わえている。3コマ目で歩き出したすずの左足の下駄の裏は、この小さな一仕事を終えたあとの

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(17)風呂敷包み | マンバ通信
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    sinopyyy 2017/05/12
    連載まだ続くんだ!
  • 片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(打ち上げ編) | マンバ通信

    前・中・後編でわたってお送りしてきた、片渕須直・細馬宏通のトークセッション。実はイベント終了後の打ち上げで、まだ二人の話は続いていたのです。そんなこともあろうかと、しっかり会話を収録しておりました。当日のイベント参加者も聞けていない初公開のトーク、じっくりお楽しみくださいませ。それにしても、居酒屋の会話とは思えぬ濃さ! 女性視点から見た「この世界の片隅に」 (打ち上げの酒場にて) 細馬 萩尾望都の名前が出てきましたけど、僕は監督が少女マンガを読み込んでるほうなのかと思ってました。 片渕 そうでもないと思いますよ。 細馬 僕の場合、少年チャンピオンを見て萩尾望都を知った後に、続きがあるわけですよ。「この絵は妹の部屋で見たことがあるぞ」と。そこから妹にマンガを借りたりして芋づる式に少女マンガに入り浸っちゃうわけです。こうのさんはそんなに少女マンガ独特の文法は使っていないけど、マンガ家の中では相

    片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(打ち上げ編) | マンバ通信
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    sinopyyy 2017/04/07
  • 片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(後編) | マンバ通信

    片渕須直と細馬宏通の「この世界の片隅に」をめぐるトークセッション、後編。今回は呉や広島の地名がたくさん出てくるので、グーグルマップに地名をまとめております。参照しながら読むと、トークだけでなく原作やアニメの理解度もグッと深まると思うので、突き合わせながら読むことをおすすめします。 前編はこちら 中編はこちら 鎧戸を閉めたのはどこから? 細馬 うちの母親は戦後に中学校の教師になって、阿賀とか蒲刈のほうに教えに行ってて、そのへんウロウロしてたみたいですね。 片渕 阿賀とか広とか、当に狭いエリアですけどね。(広域合併される前の)呉って当に狭いんですよ。どこへでも歩いていけるくらい。あの碁盤目になってるところ、1キロ四方くらいじゃないですかね。それくらい狭いところに40万人いた。 トークセッションに出てきたところ 細馬 すごい密度ですよね。僕この前、久しぶりに宮原に行きましたけど、けっこう坂き

    片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(後編) | マンバ通信
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    sinopyyy 2017/03/17
  • 片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(中編) | マンバ通信

    片渕須直と細馬宏通の「この世界の片隅に」をめぐるトークセッション、中編。今回、話題の中心となっているのは、原作の行間を読む作業や、アニメの音楽の付け方について。片渕監督の「音」へのこだわりを聞くと、また劇場に足を運びたくなることうけあいです。 前編はこちら すずさんは学校を卒業してから何をしていた? 細馬 僕がこの映画すごいと思ったのは、ものすごく早いでしょう? 笑いどころで「ワハハ」と笑ってる間にもうスイっと次が始まっちゃう。当に油断ならない。一番油断ならないと思ったのは、波のうさぎのところから、昭和18年くらいまで3つの時代が入ってきてますよね。20秒くらいの間に、「卒業しました」「日米開戦しました」「お兄ちゃん兵隊に行きました」って。 片渕 あれはすずさんの14歳、16歳、18歳なんですよね。 細馬 「ええええ、こんなに短く行くんだ!」と思って。 片渕 一応どこからアメリカ戦争

    片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(中編) | マンバ通信
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    sinopyyy 2017/03/17
  • 片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(前編) | マンバ通信

    作品の細部にまでこだわって描写する監督・片渕須直。作品の細部を読み解こうとする研究者・細馬宏通。「この世界の片隅に」をめぐって、この二人のトークセッションが行なわれた。聞き手も受け手も、ものすごく細かいところについて語っていて、思わず「こまけー!」と声が出そうになるのだが、しかし読めば読むほど、原作も映画当に丁寧に作られた作品であることがしっかりと伝わってくるトークになっている。観客は原作と映画はすでに見ているという前提でのトークなので、未見の方はまず作品を味わってから読まれることをおすすめします。 (2017年1月28日、京都・立誠シネマで行なわれたトークセッションを再構成したものです) 「はだしのゲン」を2巻から読んだこうの史代 細馬 あの映画を拝見して、まず「監督はすごくマンガを読み込む人だな」と感じたんですね。それも単なるマンガ好きでパッパパッパ読んでるということじゃなくて、細

    片渕須直×細馬宏通トークセッション 「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に(前編) | マンバ通信
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    sinopyyy 2017/02/28
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(16)遡行 | マンバ通信

    フォーク・クルセイダーズの『悲しくてやりきれない』は不思議な構造を持った名曲である。取り立てて難しいコードやメロディがあるようには聞こえないけれど、流行歌によくある8小節ではない。4拍子で始まる前半は7小節、後半は7小節ののちにふいに「告げようか」と2拍子が差し挟まれて、また4拍子に戻る。あえて4拍子として数え上げるなら、7小節+9.5小節ということになる。なかなかに変則的だ。 そしてメロディ。わたしがとりわけ惹きつけられるのは冒頭の旋律だ。「胸に」の「に」。この粘りのある「に」の持続音によって、聞き手の精神はぐっと引き伸ばされる。その十分伸び切った精神に、「しみる空の輝き」という粒立ちのよいメロディが降ってきて、まさしく空の輝きを沁ませる。歌はいつの間にか水の上を滑るような推進力を得て、聞き手をやりきれなさへと誘ってゆく。悲しくて悲しくて、しかし、その悲しさを何度でもたどりたくなってしま

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    sinopyyy 2017/02/22
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(15)かまど | マンバ通信

    事の支度をするさまがあまりに楽しそうなので、つい気づきそこねてしまうが、かまどの前のすずはずいぶん長いこと一人で過ごしている。 たとえば、楠公飯の場面がそうだ。「三倍の水にて弱火でじつくり炊き上ぐるべし」と、作り方がこともなげに語られるが、これはつまり、三倍の水がなくなるまで「じっくり」かまどの弱火を維持せよという意味であり、もちろん、現在のコンロのように放っておけば一定の火加減になるわけではないから、薪を足し、あるいは灰を掻きだし、弱いながらも消えぬよう、火の勢いを保ち続けなければならない。「弱火」は、人をかまどの前にしばりつける。その時間を表すかのように、マンガ版では、楠公が昼寝を決め込んでいる横で、すずがかまどの前で呆然と座っている。 楠公飯の場合は極端だとしても、火をおこし、絶やさぬようにするには、かまどの前で長いこと過ごさねばならない。すずは小さな椅子に座っていることもあるけれ

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(15)かまど | マンバ通信
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    sinopyyy 2017/02/15
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(14)食事の支度 | マンバ通信

    アニメーション版「この世界の片隅に」では、場面の変わり目で、動物たちが句読点を入れるようにさっと画面を過ぎることがある。冒頭からして、すでにそうだ。「うちはよう、ぼーっとした子じゃあいわれてじゃけえ」。すずのゆっくりした口調にさっと読点を差し挟むように、カモメが飛び過ぎる。 19年5月、径子が嫁ぎ先に帰ると、すずの声は急に気分が変わったよう張り切ってきこえる。「おねえさんもお嫁入り先へ帰っていきんさって、さあほいじゃあうちがご飯の支度を!と思うたときにゃあ、配給がだいぶ減っとった」。配給が減ったのは残念だが、それでもこのセリフの「さあ」にはどこかすがすがしさが感じられる。最初に観たときには、それは「径子がいなくなった解放感」からくるのだろうと思っていたのだが、繰り返し見て、もう一つの理由にはたと気づいた。ちょうど「さあ」の掛け声のところで、一羽のツバメがついと過ぎるのだ。おまけに、画面には

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    sinopyyy 2017/01/19
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(13)サイレン | マンバ通信

    「う~~~~」と少しくぐもった声で言うのが、戦中に少女時代を過ごした母の得意の口真似だった。警戒警報の長いサイレンのことだ。口真似の次にはたいてい「あの音ぁよう忘れんねえ」が来て戦時中の思い出話となり、それが一段落すると、「では、○○体制に、かかれ-!」と子供たちを片付けだの風呂だの勉強だのと次の活動にせき立てるのが常であった。その号令は、戦争の悲惨さをまるで感じさせない奇妙な明るさを伴っており、長いこと「防空体制に、かかれー!」をもじったものだとは気づかなかった。 20年に頻繁に鳴らされるようになった警報は「警戒警報」と「空襲警報」の二つに分かれる。警戒警報は「三分連続吹鳴」の長いサイレンで、これが鳴ると夜中であろうと昼間であろうと「防空体制」に入らねばならない。そして空襲警報は、数秒おきに断続的に鳴らされる警報で、これが来たらいよいよ急いで防空壕に入らなくてはならない。 「この世界の片

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    sinopyyy 2017/01/19
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(12)右手が知っていること | マンバ通信

    アニメーションには、原作のマンガにはない小さなエピソードがいくつか散りばめられているが、中でも印象に残るのは、晴美とすずのやりとりだ。 たとえば、19年9月、まだまだ暑い畑で、すずと晴美が何かを収穫しており、晴美は黄色い花を手にしている。次のカットでは、カボチャに墨で顔を描いたものが棚の前に置かれており、そばに添えられた黄色い花が色鮮やかなので、短いカットながら印象に残る。おそらく顔を描いたのはすず、花を持ってきたのは晴美で、この髪に花をかざしたような剽軽なカボチャは、二人の合作なのだろう。 もう一つは20年3月19日、空襲後の短いエピソード。呉港への爆撃で海には魚がたくさん浮いている。「その日、呉では魚がようけ獲れた」。すずと晴美は向かい合って皿に置かれた配給の小魚を絵に描いている。晴美が言う。「ちっさ!」。その短い形容の仕方は、かつてすずが友達に言われていた「短かー」や従姉妹に言われ

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(12)右手が知っていること | マンバ通信
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    sinopyyy 2017/01/11
    ここまで読み込めるってほんと凄い!凄いのは原作なんだけど。
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(11)こまい | マンバ通信

    こまい、ということばは懐かしい。 子供の頃、呉出身の両親の知り合いたちと久し振りに会うと決まり文句のように「おおきゅうなったのう」「こまいころようあそんだのう」と言われた。「こまい」は、背丈の小さい人にも小さいものにも使う呉弁だけれど、わたしが印象に残っているのはこの「こまいころようあそんだのう」だ。たいていはそのあとに「おぼえとるか?」という問いがきた。わたしはなんとなく面映ゆく、居心地が悪くなった。その居心地の悪さというのは、自分がその人と遊んだことを覚えていないバツの悪さもさることながら、自分の外見の成長が、もう「こまいころ」のようには遊べないという感慨を相手にもたらしていることからきていたのだと、今にして思う。 そうした思い出のせいだろうか、「こまい」ということばには、ただ小さいというよりは、どこか「成長によって失われてしまう子供の属性」がちょっぴり含まれている気がする。実際、誰か

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(11)こまい | マンバ通信
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    sinopyyy 2017/01/11
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(7)紅の器 | マンバ通信

    アニメーション版『この世界の片隅に』を見ていると、マンガにそんなことが描かれていたのかと虚を突かれることがある。たとえば画帳だ。 19年5月、径子たちが街に戻って再び事の支度をすることになったすずは、刈谷さんから教えてもらった料理を試みるのだが、なぜか広島に帰ったときに描いた街のスケッチを広げており、めくると、続くページに調理法を描いた絵が現れる。この画帳は、すずが実家に帰ったとき父親にもらったおこずかいで買ったものだ。物資不足の時代だから、いくつものノートを使い分けるゼイタクはできなかったのかもしれない。それでも、街の景色も料理の方法も一つの画帳に収まっているのを見ると、すずの絵心の分け隔てなさが表れているようで温かい気持ちになる。すずにかかると、「かく」ことのもとですべてがそれぞれの価値を持っているかのようだ。 おそらくすずは事あるごとに、こんな風に身の周りのできごとを画帳にしたため

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(7)紅の器 | マンバ通信
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    sinopyyy 2017/01/05
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(6)笹の因果 | マンバ通信

    「とりかへしのつかぬあやまちをおかして仕舞ひました」と主婦十九歳はがっくりしている。義姉の径子が様子を見に行くと、驚いたことにその主婦十九歳はずらりと並んだ端切れを前に、目を笹の葉のごとく三線にして「裁ち間違えた……」と俯いている… 【図1: 中巻 p. 74】 19年11月の回は、マンガ版『この世界の片隅に』の中でもとりわけ変わった構成をしている。まず、テキストは、戦前のお悩み相談の体で進む。義姉の径子は義妹について悩みを打ち明ける。「家事を任せてゐる義妹は大陸的性質です。殊におさいほうが大ざつぱで気になります」。この義妹とは、むろん、すずのことだろう。よく観ると、径子の着る割烹着の肘にも、もんぺの膝にも、地の柄とは似ても似つかぬ素っ頓狂な柄のツギがまつり縫いで当ててある。どうやらこれがすずの「大ざっぱ」な仕事らしい。 では、すず(主婦十九歳)はまったくの不器用なのか。そうとも言えな

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    sinopyyy 2017/01/05
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(5)三つの顔 | マンバ通信

    マンガ版「この世界の片隅に」の第15回、19年9月のこと。周作はうっかり家にノートを忘れ、すずが届けに行こうとする。普段着のまま出ようとするのを見咎めた径子にうるさく言われて、すずは着替えて白粉もはたき、すまし顔で出かける。着替えた服は、やはり径子にうるさく言われて着物から仕立て直した笹模様のもんぺなのだが、これは周作にというよりは径子に気を遣ってのことかもしれない(以来、すずのお出かけの服はきまってこの笹模様だ)。 鎮守府に来たすずはおすましした標準語の口調で「帳面をお届けに上がりました」と一礼して周作にノートを差し出す。出迎えた周作は「えっ」と驚いてからようやく「ああすずさんか」と気づく。 このやりとりを描いた一コマは、読者にちょっと謎をかけている。周作は、一瞬相手がすずであることがわからなかったらしい。では、なぜわからなかったのか。家では見せないかしこまった振る舞いゆえか、それともお

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    sinopyyy 2016/12/22
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(4)空を過ぎるものたち | マンバ通信

    『ぴっぴら帖』『こっこさん』『日の鳥』。こうの史代の作品で、鳥は特別な位置を占めてきた。『この世界の片隅に』に表れる鳥もあちこちで不思議な印象を残す。中でも読後、間違いなく読者の記憶に残る鳥は、サギだろう。 マンガの中でサギがはっきりと描かれるのは、意外にも中盤以降だ。19年12月、呉で久し振りにすずに再会した水原は、オミヤゲがわりに鳥の羽をすずに渡す。水原は南方の船上で、サギに似た鳥を見上げたのだという。マンガの片隅に記された注には「サギの中でも、チュウサギは冬を東南アジア、夏を日で過ごす渡り鳥なんだって」とある(この注が羽で始まる小さな工夫がまたぐっとくる)。しかし、故郷の広島での水原の記憶は違う。「のう……年がら年中、川へつっ立っとろう?」。おそらく南方で空を見上げた彼は、郷里でもある広島がひととき空を過ぎったような、奇妙な幻視の感覚に囚われたことだろう。幻かうつつか、水原の手元に

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    sinopyyy 2016/12/16
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(3)流れる雲、流れる私 | マンバ通信

    マンガのことばはテキストで、アニメーションは声。 そう書くと、いや、マンガのセリフだって話し言葉ではないか、という反論がくるかもしれない。しかし、たとえ話し言葉であってもそれはテキストである。その多くは抑揚や強弱や速度、あるいは表情を欠いている。もちろん、?や!、あるいは太文字や書き文字による装飾によって多少の表情をつけることはできるし、そうした装飾付きのテキストから頭の中で誰かが話しているところを想像したり、実際に自分で朗読することもできる。しかし、そのやり方は読み手に委ねられている。 たとえば、「ほんらいはアニの役目でしたが風邪のため、わたくしが」というテキストがあるとする。これをわたしたちはどう読めばよいだろう。見たところ、何の変哲もない標準語だ。何の装飾もない。すらすらと、訛りのないことばで読めばよいように思える。 では、次の3コマを見てみよう。上のテキストは実は『この世界の片隅に

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    sinopyyy 2016/12/16
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(2)「『かく』時間」 | マンバ通信

    マンガ「この世界の片隅に」には、「かく」場面が多い。鉛筆で、絵筆で、羽で。すずはかくことが好きだ。婚礼の日ですら、嫁ぎ先の片隅に居場所を見つけ、行李の前に座り込んで兄に絵入りのはがきを書く。祝いの席で出たべものをひとつひとつ鉛筆で絵に描いてから、「兄上のお膳も据ゑましたよ。せめて目でおあがり下さい。」とことばを添える。しかし翌朝、はがきの表に自分の名前を書き終えたすずの手がふと止まる。すずは新しい家族に尋ねる。「あのお………… ここって呉市…? の何町…? の何番ですか?」 「ぼうっとしている」すずは、嫁ぎ先の住所すら把握していなかったというわけなのだが、ここでわたしがなぜ「すずの手がふと止まる」と書けたかといえば、マンガのコマ運びがこうなっているからだ。 (『この世界の片隅に』上巻 80ページ) すずが表書きを書くコマはわずか3つにすぎない。けれど読者はこの3コマから、鉛筆の動きと停滞

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    sinopyyy 2016/12/02
  • アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(1)「姉妹は物語る」 | マンバ通信

    2016年11月、ついにアニメーション版『この世界の片隅に』が公開された。アニメーション好きばかりでなく、原作であるマンガのファンからも高い評価を受けている。2回あるいは3回観たという知人もいる。わたしは4回観た。名作であることは間違いない。しかし、名作名作と言っているだけでは飽き足らない。そろそろこの物語について、ネタバレも含めて自由に語りたくなってきた。 わたしはふだん、誰か一人の行為ではなく、行為と行為のやりとり、すなわち相互行為を扱う仕事をしている。だから、アニメーションで交わされる会話をきくときには、特定の誰かの声の魅力に聞き入るよりも、誰かと誰かの相互行為において彼らの声がどんな風にきこえてくるか、それを手がかりにアニメーションの受け手はその場面をどんな風に理解しているかが気にかかる。また、原作とアニメーションのどちらがよいか、ではなく、アニメーションが原作をどう翻案することに

    アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(1)「姉妹は物語る」 | マンバ通信
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    sinopyyy 2016/12/02