門外漢の私が、柄にもなく中野重治の詩について、拙ない文を草してみようとするのは、私が中野重治を、その詩集を、こよなく愛するからである。今まで に、新潮文庫や岩波文庫で『中野重治詩集』を何冊手にしたことだろう。それらの詩集は、いつの間にか私の手もとから消えてしまう。誰かにやってしまうの だ。たまたま汽車の中で話をした人にやったり、研究室で話をしている学生に与えてしまったり、様々な形で人々の手に渡って行った。 それは、中野重治の詩を多数の人に読んでもらいたいからである。良い作品に触れると、大勢の人に、こんな詩がありますよ、こんな詩人がいますよと教えた くなる。授業でとりあげた事もたびたびある。私の授業で初めて中野重治に触れたという学生も多い。そんな学生走ちの何割かが、(何人かでなく、何十人か が)こんな詩人がいたのか、こんな詩があったのかと興味を示し、中野の詩を好きになる。いいですねと言っても