無意識の奇矯さに執着する人は、しかし社会的な正しさが問題になると凡庸な正論を言うことがある。 夢の話に夢中になったあとで、「でもひきこもりは最低」。 逆に、社会的な公正さを徹底する人は、無意識という独特の自己解体のロジックを問題にしてくれるだろうか。 私は、「人間関係のための暗黙の共通了解」を維持するのが極端に難しい。 しかしそれが逆に言えば、関係性のロジックを分節化するオブセッションにもなっている。 意識のかこつアリバイに耐えられない。 そのことは、震災時の《享楽》と関わる*1。 痛みが関係を立ち上げるべきなのに、日常が痛みを抑圧している。 日常というナルシシズム。 消費しあいっこのフェティシズムが維持する*2。 *1:【参照1】 【参照2】 *2:ブロガーとしての自意識は、「消費財としてのナルシシズム」であり得る。 受験偏差値のように。 症候的に反復される強迫的な空虚は、文字化のオブセ
![2007-02-18](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/06a15c64ba0ceec233d86d71001ebb29a9dcbf5d/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fcdn.blog.st-hatena.com%2Fimages%2Ftheme%2Fog-image-1500.png)