タグ

2008年6月17日のブックマーク (5件)

  • 「みんな」の無謬性の仮定と「疎外」という概念について - svnseeds’ ghoti!

    松尾先生の『「はだかの王様」の経済学』(asin:4492371052)に対する山形さんの強烈な書評を読んでの感想を書いてみるよ。ていうかやっぱりルソーって罪深いよなあとつくづく思いました。南無南無。 松尾先生のこのは未読なんで(でも例によって買って積んではある)、そもそもこの時点であれこれ書くのは失礼千万な話だとは思う。なので、あくまで今回のエントリは、山形さん、econ-economeさんによる書評、および田中先生のエントリ、松尾先生ご自身の疎外に関する説明を読んでの感想ということでご容赦下さい。近日中にちゃんと読んで、必要であれば訂正するようにいたします。これ変だ、ってところがあれば是非ご指摘いただきたく。よろしくおながいします。 ということでまずは山形さんの力説するとおり、やっぱり「疎外」って考え方はどこにも行き着かない袋小路のようなものだなあ、と改めて思った次第。 例えばわかり

    「みんな」の無謬性の仮定と「疎外」という概念について - svnseeds’ ghoti!
    smicho
    smicho 2008/06/17
    残念ながら(略>世界は別に「市場」だけでできているわけじゃない。
  • 『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である

    研修資料の余白に:『はだかの王様の経済学』は戦慄すべきである (2008/06/16, 17 日に 注 等細かい加筆, 22日にコメントなど加筆。) 山形浩生 要約:松尾『はだかの王様の経済学』は、解説されている疎外論がひがみ屋の責任転嫁論でしかないうえ、それを根拠づける「来の姿」だの「実感」だのがあまりに恣意的で確認しようがなく、まったく使えない。そして「みんなで決め」ればすべてうまく行くというお花畑な発想は悪質なニュースピークによる詐欺であるばかりか、最後にはポル・ポトまがいの抑圧思想に直結していて戦慄させられる。 目次 序 「設備投資」は「コントロールできない」か? 疎外とはひがみ屋の天国である。 「来の姿」ってだれが決めるの? 市場を超える「話し合い」って? 「みんな」で決めればだれも不満はない? おわりに 稿への反応など 蛇足コメント 1. 序 松尾筺『はだかの王様の経済

  • ファイナルファンタジー11失敗の意義とサービス止め時を考える - やまもといちろうBLOG(ブログ)

    この前のカンファレンスの分科会でも話が出ましたけれども、あれから数ヶ月経ってみて、結局情勢が一個もいい方向に逝ってなさそうだったので。まあ妄想混じりに書いてみるか。 簡単に書くと、スクウェアエニックスにとって「ファイナルファン他事ー」ってのは大事なブランドであるし、そのブランドを冠したオンラインサービスであるから、あんまりブザマなやめ方はできないだろう、と思うこと。一方で、世界的なマーケットで見ればワールドオブウォークラフトのほうが圧倒的に出来が良く、アカウントも1,000万超え&稼働率はFF11よりはるかに高い状況を見ると、世界タイトルとしてのファイナルファンタジー自体は惨敗したと結論づけていい。 単体で見れば利益が出ているとか、そういう細かい話は抜きに考えても、サービス開始してそれなりに時間が経過してて、もうサービスを支えるシステムもハードも限界なんじゃないかと妄想。っていうか、これだ

    ファイナルファンタジー11失敗の意義とサービス止め時を考える - やまもといちろうBLOG(ブログ)
  • 自分の絶望が理解されないだろうという絶望 - アンカテ

    深い絶望を検知するそのソフトは赤木論文に反応するだろうか?というエントリで私が言いたかったのは、セキュリティ社会を構築するのに近道はないということです。 それを示す為に、総務省の構想(とそれに期待してしまう一般の人の気分)は、結局、「絶望の検知」に帰着すると書きました。私は、コンピュータが絶望の検知をすることは原理的に不可能だし、大半の人は常識的にそう考えると思っていました。しかし、その認識は自分が思ったほど共有されてないようです。 私は「犯罪予告検知システム」に期待されているものを「謀議の検知」と「絶望の検知」に分けましたが、犯罪を犯そうとしている者が既にはっきり決行を決意していて、誰にも邪魔されたくないけど、情報交換の為にやむを得ずネットを使うケースもあると思います。これの情報を決行前に検知して予防の措置を取ることを、私は「謀議」の検知と呼びました。 インターネット全体を網羅的に監視す

    自分の絶望が理解されないだろうという絶望 - アンカテ
  • メメント・モリ - すなふきんの雑感日記

    かつては「死」は日常の身近にあった。生まれてすぐに死んでしまうことなど普通のことだったし、疫病・戦乱・自然災害など「死」の原因は現代よりはるかに氾濫していた。現代が犯罪多発社会で怖いなどと言う人が多いが、実は昔に遡るほど犯罪による死も多かったということは今では常識となっている。なので、死への感覚も今とは相当異なったものであったはずだ。自分の周囲数メートル以内で頻繁に死に接することが多かった時代には、現代のように遠くの見ず知らずの人の死の報道がなされるたびに一時的にせよ不特定多数の人に感情移入を引き起こすような現象など考えられなかっただろう。それほど死は当たり前の出来事だった。現代人*1が昔の人々に比べて犯罪や暴力への忌避意識が強いのは裏返せばそれだけ平和な証拠だともいえるのかもしれない。過去に理想社会を投影し、昔は犯罪など滅多に起こらずみんな仲良く平和に暮らしていたという牧歌的なイメージを

    smicho
    smicho 2008/06/17
    無いでもない>根拠。