カメキチの目 可 及 其 智 不 可 及 其 愚 (そのちにはおよぶべきも そのぐにはおよぶべからず) 私の読んだ本は、こういうことが述べられていた。 知識はいくらでも積めるし、賢くもなれる。多くのことを知り苦行難行を 積めば、それだけのことがあるかも知れない(ないかも知れない!) それを「智」と呼んでもいいと思われるが、ただ、それで悟りにいたっても、 悟りを得たという自我を捨て去らなければ真の悟りとはいえない 誰だって、悟りの臭いがする「智」の人にはなれるが、 それを少しも感じさせない人になるのは、本当に難しいのだと思う 良寛は「大愚良寛」、親鸞は「愚禿(愚かな坊主)」と自らを称したが、 人間とか人生の何かについて「悟る」まで考え実践した彼らは己の存在の 小ささを、雄大・悠久なる自然を前に実感せざるを得ず、その気付きを決して 卑下するのじゃなくただ謙虚になり、それで「愚」と名乗ったのだ