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entryと考えるに関するsolailoのブックマーク (5)

  • 妄想のすすめ - 内田樹の研究室

    月曜日。午前中、下川先生のお稽古。昼から部長会。そのあと3回生ゼミ。それから杖道のお稽古。 新人がたくさんいるので、たいへん楽しい。 帰宅後、ひさしぶりに帰郷したるんちゃんと歓談。 歓談しすぎて、二日酔い。 火曜日。朝、湊川神社で申し合わせ。盤渉楽。とりあえず間違えずに最後までゆくが、最初のうち身体が硬い。 着替えてから大学。ゼミ二つ。ゼミのあいまに原稿書き。 大学院ゼミは戦後世代論。 黒田くんの発表を聞いているうちに、カッキ的な世代論を思いつき、それをご披露する。 家に戻って、るんちゃんと近くのイタリアンで晩ご飯。 ワインのみつつ歓談。 昔話にふける。 震災のときの山手小学校の校長先生(たいへん立派な方であった)の話など。 家にもどってバカ映画を見る。 あまりにバカな映画だったので、タイトルを思い出せない。 るんちゃんに「読むべきマンガ・リスト」を作ってもらう。 ただちにアマゾンに発注。

  • 被害者の呪い - 内田樹の研究室

    毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。 いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。 昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。 こんな話。 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「

  • トキメキについての感性がない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 他人事と自分事。 ものや情報、そして、他人と接していて、その対象にどれだけ「近さ」を感じることができるか。それがものづくりにおいても生きていくうえでも大事なことじゃないかと思いはじめています。 愛着、恋、親しみ。まぁ、なんでもいいのですが、自分が接する相手(人でも、ものでも、情報でも)にどれだけ身近さを感じられるか。他人事ではなく自分事として感じられるか。一体感でしょうか。それがないとものづくりも、人生も すこし前に養老孟司との対談集『「わかる」ことは「かわる」こと』を紹介した理論物理学者の佐治晴夫さんが松岡正剛さんと対談した『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』というのなかにもおなじことに触れた掛け合いがあります。 はじまりは松岡さんのこんな発言から。 松岡 たまた

  • 花見川の日記 - SONYは最初から”PS3”を売る気が全く無かった

    書いてるうちに朝になったので今日の日付でアップすることにしよう。 今回は再びPS3の話。 FIFTH EDITION - SCEと任天堂の「いつか来た道」 SCEは、かつて、PSでゲーム業界を発展させました。 サードに広く門戸を開き、冒険的なソフトが出せる下地を作り、小売を任天堂の支配から解き放ち、市場に競争をもたらしました。 ですが、市場を支配すると同時に腐って、どうしようもないほど腐って、PS3という問題児を作ってしまいました。上記のように、あちらこちらで批判されてるPS3なのだけども、何だかどうも引っかかる部分があった。 なので、前のエントリで、PS3は新しいテレビを目指そうとしたのではないかという推論を立てたのだが……どうもこれは違うらしい。 前エントリのコメント欄にて、 # rainbowjp 『ソニーはPS3をゲーム機とは考えてないよ。あれは今後のソニー製AV製品の雛形。 今後

    花見川の日記 - SONYは最初から”PS3”を売る気が全く無かった
  • 資本主義的勤勉さ - Everyday Life in Uptown Tokyo on Hatena

    マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資主義の精神」(岩波文庫 ISBN:4003420934)を読み、いちばん印象に残っているのは、金銭欲、拝金主義というのは歴史的、地理的に普遍的だけれども、近代資主義を支えている精神、エートスは特殊なものだ、という指摘である。このの主題は、その特殊な「資主義の精神」の起源が、「プロテスタンティズムの倫理」にあることを論証することだけれども、私にとっては、その前提となる「資主義の精神」の特性についての記述の方が興味深い。 いくつか、関連する部分を引用してみようと思う。 ……職業義務(Berufsspflicht)という独自な思想がある。……労働力や物的財産(「資」としての)を用いた単なる利潤の追求の営みに過ぎないにもかかわらず、各人は自分の「職業」活動の内容を義務と意識すべきだと考え、また事実意識している、そういう義務の観念がある

    資本主義的勤勉さ - Everyday Life in Uptown Tokyo on Hatena
    solailo
    solailo 2006/09/11
    『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう(ウェーバー)』
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