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ブックマーク / blog.tatsuru.com (17)

  • いま、学校教育に求められているもの - 内田樹の研究室

    兵庫県立教育研修所にて、去年に続き、県立高校の二年次校長のための研修会で講演。 県下の高校の校長先生たちにまとめて「営業」できる機会なのであるが、今回は入試部長として行っているわけではない。 お題は「今、学校教育に求められているもの」。 鳩山内閣の教育政策への期待から始まり、公教育への財政支出の対GDP比の話、消費文化と原子化の話、ブリコルールの話と、話頭は転々したが、メインテーマは「学校は子どもを成熟させる場である」ということである。 学校教育についての評言のほとんどは、それがどういう「利益」を「受益者」である子どもたち、および「金主」である家父長たちにもたらしているかを基準になされている。 けれども、学校教育義は「利益」によって表示されることはできない。 その人類学的使命は「子どもを大人にする」ということに尽くされている。 「大人」とは人間の社会的活動の意味を考量するときに「それを

  • ナショナリストとパトリオット - 内田樹の研究室

    河合塾での講演のあと、廊下でナショナリズムについてひとりの予備校生から質問された。 たぶん、彼の周囲でもナショナリスティックな言動をする若い人たちが増えてきており、それに対してどういうスタンスを取るべきか決めかねているのだろう。 若者がナショナリズムに惹きつけられる理由はわかりやすい。 それは帰属する集団がないからである。 人間は帰属する集団があり、そこで他者と共生し、協働し、必要とされ、ゆたかな敬意と愛情を享受していれば、パトリオットにはなっても、ナショナリストにはならない。 パトリオットは自分がその集団に帰属していることを喜び、その集団を律している規範、その集団を形成した人々を愛し、敬しており、その一員であることを誇り、感謝している。 ナショナリストはそうではない。 彼はどのような集団にもそのような仕方では帰属していない。 彼は自分がさしあたり所属している集団について(それが家族であっ

  • 変化が好きなのキライなの - 内田樹の研究室

    朝起きて、ねぼけ眼で新聞を開くと、そこに自分の顔写真があって目が合うというのは、あまり気分のよろしくないものである。 今朝の毎日新聞でも、兵庫版で県知事選についてコメントをしている。 私は別にコメントすることなんかないので「コメントすることなんか、別にありません」と最初はお断りしたのである。 では、どうしてそういうふうに有権者の関心が低いのかを含めてコメントを・・・ということで、しかたなく取材を受けたのである。 でも、取材されると、やはりない知恵をしぼって、いろいろ考えるものである。 私が思いついたのは、国政は激しく変化することを好む領域であり、地方政治は惰性が強くて、あまり変化を好まない領域だということである。 そういう社会の変化や民意の変化に対する「感度」の差が国政と地方自治のあいだにはある。 別に誰が決めたわけでもないが、そうなっている。 誰が決めたわけでもなくそうなっていることには

  • 「父」からの離脱の方位 - 内田樹の研究室

    『1Q84』は記録的な売れ行きらしい。 今の段階で、発売一週間で96万部。 ミリオンを超えることは確実で、『ノルウェイの森』の450万部という記録を塗り替えるかもしれない。 おそらくメディアはこれから、このの文学作品としての意味より、なぜこれがこれほどの社会的な「事件」を引き起こしたのかの方に多くの紙数を割くようになるだろう。 メディアが『1Q84』を「事件」として扱い、膨大な非文学的言説が行き交うようになる前の短い空白の間に、この作品についてまだ誰の感想も聞いていないイノセントな状態で、自分ひとりの感想を書き付けておきたい。 ムラカミ・ワールドは「コスモロジカルに邪悪なもの」の侵入を「センチネル」(歩哨)の役を任じる主人公たちがチームを組んでい止めるという神話的な話型を持っている。 『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『アフ

  • 1Q84 読書中 - 内田樹の研究室

    『1Q84』読書中。 もったいないのでちびちび読んでいる。 何誌からか書評を頼まれたが、最初に『週刊文春』の山ちゃんからを送ってもらってしまったので、渡世の仁義上、あとはお断りする。 ぜんぶにそれぞれ違う内容の書評を書くというのも考えてみると楽しそうであるが、遊んでいる暇がない。 まだメディアでは書評が出ている様子がないけれど、みんなどうしているのだろう。 私はひたすら「ゆっくり」読んでいるので、今 Book 2 の中程である。あと4分の1しか残っていない。 子供の頃には、面白いを読んでいて、残り頁がだんだん減ってくると「ああ、楽しい時間もあとわずかだなあ」と悲しくなった。 どこか「ダレ場」が来たら、そこで読むスピードを落とそうとするのだが、それがないのが「面白い」の面白い所以であって、結局、「あああ」と言っているうちに最後まで一気に読んでしまうのである。 そういう残り頁数が減ってく

  • 「街的」の骨法 - 内田樹の研究室

    江さんが『ミシュランガイド 京都・大阪版』についてきびしいコメントを発している。 4月6日の140Bのブログに江さんはこう書いている。 ミシュランの記者会見があるので行ってきた。 このことはすでにテレビや新聞で「ミシュランガイド京都・大阪版発行へ」というふうに報道されているのだけれど、実はとある週刊誌の取材だったのだが、このところ京都・大阪の街場で、ミシュランの覆面調査員の「プレセレクション」が終わり、すでに「調査員だと名乗って追加調査」する「訪問調査」に入っているのだ。 その際のやり取りで、「取材拒否」が多く、それは「これ以上新規のお客さんが来ると困るから」とか、「星の数が少なく載せられたら困るから」とかいろんな事情があるのだが、普段来ない顔の見えない訳のわからない人に格付けされることに対しての違和感だろう。 その底には、京都・大阪といった固有の、歴史と風土と人に裏打ちされたをとりまく

  • バリ島にて - 内田樹の研究室

    バリ島に来ている。 このところ毎年二月にバリ島に5日ほど滞在するというのが慣例化している。 一度はじめたことはなかなか止めないというのは私の悪癖であるが、バリ島もそうなりつつある。 2月は雨期なので、毎日雨がじゃんじゃん降っている。 「車軸を流すような雨」という言葉があるが、ほんとうに車軸ほどの太さの雨が豪快に天から降り注ぐ。 日なら、たちまち土砂崩れ、新幹線不通、高速道路通行止めレベルの豪雨である。 それが「ふつう」なのである。 バリ島の人々はそんな雨をにこやかに眺めて、動じる風もない。 温帯モンスーン地域固有のこの「自然に対するなげやりな態度」が私は好きである。 ヨーロッパ人は「自然は征服し、統御すべきもの」として観念しているから、こんな雨に対して、なんとなく「許せない」という印象を抱くのであろうが、私たちアジア人は雨を見ているとつい「だらりん」としてしまう。 「雨雨ふれふれ」という

  • 福翁の「はげしい」勉強法 (内田樹の研究室)

    文部科学省は22日、13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案を発表した。「英語の授業は英語で行うのが基」と明記し、教える英単語数も4割増とする。 高校の改訂案では英語で教える標準的な単語数が1300語から1800語に増加。同様に増える中学とあわせて3千語となる。中高で2400語だった前回改訂の前をさらに上回り、「中国韓国教育基準並みになる」という。 改訂案は「授業は英語で」を初めてうたった。長年の批判を踏まえ「使える英語」の習得を目指すという。(12月22日朝日新聞) 水村美苗さんの『日語が亡びるとき』を読んで、「英語の言語的一元支配」が「現地語文化」をどのように滅ぼすことになるのかについて暗い予測をしているときに、こういう記事を読まされると、ほんとうに気が滅入る。 すでに現在の日の高校生の英語学力は壊滅的なレベルにある。 それは「文法、訳読中心の授業のせいで、オー

  • 費用対効果教育 - 内田樹の研究室

    全国私立大学付属・併設中学校高等学校教育研究集会という長い名前の集まりに呼ばれて一席演じる。 教授会がある時間帯なので、ほんとうは断るべき学外バイトであるのだが、なにしろお相手が全国の中高名門校の先生方である。 大学案内をかかえて「あの〜、進路指導の先生にお会いしたいんですけど〜」と腰を低くして職員室にうかがっても、「あ、そのへんに資料だけ置いて帰っていいです」というような扱いを受けてきた身としては、「まとめて営業」できる機会というのはこちらからお鳥目を差し出しても伺いたいところである。 研究集会のテーマは「教育の不易と流行-多様化する社会における一貫教育の役割」というものである。 ちょうど『街場の教育論』が出たところなので、「学校教育は惰性の強い制度であり、社会の変化に即応すべきではない。変化しないことこそが教育の社会的機能なのである」という持論を述べる。 直前の教務委員会で来年度の学年

  • 人を見る目 - 内田樹の研究室

    山形浩生さんが少し前にノーベル賞について、「ノーベル賞受賞者数を政策目標に使うような発想は、ぼくはゆがんでいると思う」と書いている。 「それは自分では評価できませんという無能ぶりを告白しているに等しい。だからぼくは日に必要なのは、ノーベル賞受賞者そのものより、研究や業績を王立科学アカデミー並みの見識と主張をもって評価できる人や組織の育成じゃないかと思うのだ。日でも、何かノーベル賞に比肩するような世界的な賞を作ってみてはどうだろうか?(…) もちろん・・・おそらく無理だろう。日ではそんな賞はすべて地位と経歴と学閥内の力関係で決まり、下馬評は事前にだだ漏れとなり、受賞目当てのロビイングが横行し、結果としてだれも見向きもしないつまらない賞になりはてるだろう。それが日の問題なのだ。」(「論点」、毎日新聞、10月31日) 山形さんの言うとおりだと私も思う。 私たちの社会のたいへん深刻な問題の

  • 北京オリンピックに思うこと - 内田樹の研究室

    今朝の新聞を読んだら、新彊ウイグル地区で爆弾テロがあった。 北京オリンピックは果たして無事に開催されるのであろうか。 毎日新聞に三ヶ月おきに書いている「水脈」という時事エッセイの締め切りなので、そのことについて書く。 北京オリンピックについては、二ヶ月ほど前に TBS の報道研究誌に寄稿を求められて、少し長めのものを書いたことがある。 あまり人目に触れる機会のない媒体であるから、その後半部分をここに転載しておく。 友人のビジネスマン平川克美くんは「中国人が北京オリンピックで失うものは、日人が東京オリンピックで失ったものの10倍規模になるだろう」と予測している。私の実感もそれに近い。 中国の人々が北京オリンピックで失うものは私たちの想像を超えて巨大なものになるだろう。 こういう国家的イベントによって失われるものは「かたちのあるもの」ではない。むしろ、「かたちのないことが手柄であるようなもの

  • 「株式会社という病」を読む - 内田樹の研究室

    平川くんの『株式会社という病』(NTT出版)のゲラが届いたので、東京へ向かう新幹線の車中で読み始める。 平川くんはブログ日記で、このを書くのにずいぶん苦労したと書いていた。 彼が「苦労する」というのはどういうことだろう。 言いたいことをはやばやと書ききってしまったので、残りの紙数を埋めるのに苦労するということは学生のレポートのような場合にはよくあることである。 だが、平川くんのような書き手の場合に「書くネタが尽きる」ということはありえない。 ということは、彼がこので「手馴れた道具」では論じることの困難な種類の主題を扱っているということである。 平川くんをして困惑せしめる主題とは何であろう。 一読して、その困惑が少しだけわかったような気がしたので、そのことについて書きたい。 彼は久が原の町工場の長男として育った。 その少年時代の親たちの働きぶりや、彼のまわりにいた工員たちの姿を活写すると

    sophisticate
    sophisticate 2007/04/30
    彼は「平川精密的なもの」が国際的なスケールのビジネスにおいても汎通的に実現可能であることをこれまでも望んできたし、たぶんこれからもそれは変わらないだろう。 それがどれほど
  • 少年法「改正」 (内田樹の研究室)

    少年犯罪が凶悪化したので「厳罰化」する、という少年法改正案が衆院を通過した。 この一文はすでにいくつかの問題を含んでいる。 少年犯罪が「凶悪化」したということをメディアは自明のように語るけれど、「凶悪化」とは何のことかについて十分な吟味がなされているように思われないからである。 少年犯罪件数自体について言えば、日は世界でも例外的に「少年犯罪が少ない」国である。 ヨーロッパ諸国が「日の奇跡」と呼び、「どうしてこんなに少年犯罪が少ないのか」を調べに調査団が来るほど、少ない。 少年犯罪統計データを見れば一目瞭然である。 少年(10-19歳)の10万人当たりの殺人事件の検挙人数比率を見ると、1936年が1.05,1940年が0.93、1950年が2.14、1960年がピークで2,15。それから年々低下して、1980年に0.28、90年に0.38,2004年で0.48である。 2004年はもっと

  • 新学期のご挨拶 - 内田樹の研究室

    2007年度の新学期が始まる。 岡田山に来て18回目の新学期である。 新メンバーで部長会に出てから、最初の三年生のゼミがある。 新顔の15名のゼミ生たちにご挨拶をする。 内田ゼミにようこそ。 日は初日であるので、このゼミではどんなことをやるのかについてご説明しよう。 このゼミは「知識」を得るためのものではない。 「知識」というのは基的に一問一答のクイズ形式でフォーマットされている。 「タイ・カッブの最高打率は?」「0.420」 「ニール・ヤング、ジム・キャリー、マイク・マイヤーズ。共通点は?」「カナダ人」 というふうに。 しかし、実際に人生の岐路でそういうクイズ形式の問いを差し向けられるということは起こらない。 実際に人生の岐路(めいたところ)で私たちが遭遇するのは「答えがもともとない問い」と「答えがまだ知られていない問い」だけである。 「答えがもともとない問い」というのは問いに対して

  • 中国行きのスピードボート - 内田樹の研究室

    諸君、喜んで欲しい。 ついに『街場の中国論』を脱稿した。 極楽スキーに行く前日に新潮社に『逆立ち日論』(仮題)の初校を戻し、極楽スキーから帰った翌日にミシマ社に『街場の中国論』の初校を戻したのである。 「極楽」というルアーがどれほど私の生産性を底上げするか、この一事を以て知れるであろう。 編集者諸君は「ウチダは責めて叩けば何とかなる」と思っておられるようであるが(それは部分的にはたしかに事実なのである)、ほんとうは「ウチダは楽をさせて遊ばせておくに限る」のである。 そうして放っておくと、私はいずれ「おっとこうしちゃいられない」と、いつもの貧乏性の馬脚を現して、頼んでもいない仕事までやってしまうのである。 私を働かせようと思ったら、簡単である。 「あ、センセイの原稿ですか? なもん、いつでもいいですよ。どうせ、是非とも読みたい人がいるってわけじゃないんだし、はは」 と言っていただければ、よ

    sophisticate
    sophisticate 2007/03/12
    『街場の中国論』
  • 言い訳上手になりました - 内田樹の研究室

    NHKが01年放送の「女性国際戦犯法廷」のドキュメンタリー番組で政治的圧力を受けて番組内容を改変した事件について、東京高裁がNHKに賠償命令を下した。 隣の記事は関西テレビの「あるある大事典」の捏造問題の中間報告。 テレビメディアの中立性やフェアネスに対する社会的信用はずいぶん低下したようである。 まあ、身から出た錆である。 でも、「テレビの言うことならほんとうだろうと思っていたのに・・・裏切られた気持ちです」というようなナイーブなコメントを新聞が掲載しているのを見ると、「嘘つきやがれ」と思う。 テレビが虚偽を報道したのを知って「裏切られた気持ちです」というようなことをしゃあしゃあと言ってのけるという「市井の無垢(で無知)な視聴者」のポーズそのものが「テレビ化された定型」に他ならないからである。 「テレビ底なしの不信」というような新聞の見出しはまことに「テレビ的」である。 そのことに気づい

  • 内田樹の研究室: うなぎくん、小説を救う

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    sophisticate
    sophisticate 2005/12/13
    社会の下層の者が自分探しと称して不安定な道を選ぶことが、社会の上層の利益となる。
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