タグ

人生に関するst_valleyのブックマーク (100)

  • 夫が他界して半年が経った

    子どもがおらず、ふたりとも働いていたので(もっとも最後の2年くらい夫は働けていなかったが)、なんとなく私たちは独立した個人で、ただ好きあっているので一緒にいるだけなのだとどこかで思っていた。一緒にいることもあれば、お互いの趣味友人についてそこまで深入りすることもなく、それはとても理想的だと思っていた。 それがひとりぼっちになった途端、足もとかおぼつかなくなっている。私個人の外側に置いているとばかり思っていた夫は、ずいぶん私の中に入りこんでいたらしい。夫という一部を失った私は、自分の輪郭が分からなくなった。どうして毎朝起きるんだっけ。何で毎日べるものを考えて作ってご飯をべてるんだっけ。今、立っている場所が、地面が揺れている。何で仕事に行って、なんで休みの日に休むんだっけ。お金を稼いでも、休みがあっても何にもすることはないのに。なんで夫は死んで、私は生きているんだっけ。 確かにあった肉体

    夫が他界して半年が経った
  • 不安をなくし満ち足りた気持ちになる方法8個|ふろむだ@分裂勘違い君劇場

    不安があると、無意識のうちにその不安から逃げようとして、ダラダラと無駄に時間を過ごしてしまったり、ついつい夜更かししてしまって睡眠の質が悪くなったりする。 そうすると、仕事も勉強も趣味も質が低下し、人生全体の質が低下してしまう。 この問題を解決するには、不安をなくし、満ち足りた気持ちになればいい。 基的には、以下をやると効果がある。 (1)自分の奥の方に隠れている自分を表に引きずり出す。 (2)引きずり出した自分を身体を使って表現する。 …… と言うだけでは抽象的過ぎて良くわからないと思うので、 それらを実行するための具体的な方法を8つ紹介する。 これら以外の方法を知っている方は、コメントで教えていただけると嬉しい。 (1)歌ういつ歌っても効果があるのだが、 特に寝る30分~1時間ぐらい前に歌うといい感じになることが多い。 1~2曲歌うだけでいいので時間もたいしてかからない。 不安がある

    不安をなくし満ち足りた気持ちになる方法8個|ふろむだ@分裂勘違い君劇場
  • 理想の父親像を求めるキミへ【再々追記】

    もう我慢の限界に達しそう。 子どもが大きくなるにつれて家事分担を決めつつ、お互いのフリーな時間を設けて過ごしてきた。 朝子供の準備やご飯、家庭内のゴミ集めだし、仕事後の子どもの風呂、寝かしつけを経てフリータイム、 ただし曜日指定で、万が一子供が夜泣きなどしたら対応する担当を振り分け。 家事分担は普通だとはおもうよ。 子どもが生まれた時に子づくりに発展するようなスキンシップは一切拒否、産後クライシスってやつだね。 もちろんそういう心象になったりってのは知ったし、尊重したいとは思う。 でもこっちも苦しい悲しいという気持ちを必死に伝えても、自分だってわからないと切り捨て、今は恋人というカテゴライズは消失したね。 今も当に苦しい、でも変わる気も変える気も起こしてくれなかったキミを嫌いになりたくなかったから、趣味に没頭することで紛らわせてきたよ。 昔はなんでも一緒に行動していて楽しかったね、 昔は

    理想の父親像を求めるキミへ【再々追記】
  • 30年近く同居している祖母に精神疾患があると知った日

    10年以上冷戦状態だった父親と喧嘩した。ら、タイトル通りのことを知ることになった。今後振り返ったときに実際に起こったことだけを認識できるよう残しとく。ただの喧嘩の記録。 当然だけど、精神疾患に対する批判や偏見の話ではないことだけは記しておく。不快になる方がいたら当にごめんなさい。 喧嘩のきっかけは、30年近く続く父方の祖母の被害妄想と暴言が、ここ数年痴呆が進んだことでさらにひどくなり、毎日のように「10年間の生活費の1000万と盗んだ着物を返せ」と母に言うようになったこと。また、ここ1週間は、「〇〇(私)がメル◯リで私の着物を売ったからないんだ」と独り言を言うようになっていた。 同居して30年近く経つのになぜか期間はいつも10年間で、金額が日によって300万になったり700万になったり、そもそも生活費を出していたのは父なのになぜ母に言うのか、着物に至っては祖母が着ているのを誰も見たことが

    30年近く同居している祖母に精神疾患があると知った日
  • 自分の父が毒親だとわかった日

    「30年近く同居している祖母に精神疾患があると知った日」 https://anond.hatelabo.jp/20240706023024 数日前に↑を投稿した。 思ってた以上にたくさんの方に反応してもらえて、当にありがたかった。私は自分の家のことを誰かに話したことがほとんどなかったから。 前回の投稿の追記にも書いたが、父と言い争いをした次の日、私はカウンセリングに相談に行った。 そして、カウンセラーに「あなたのお父さんは残念ながら世間一般で言う毒親です」と言われて衝撃を受けた。 コメントでも、父に対し「毒親だ」「まともじゃない」「そんな親からは逃げろ」という意見が見られた。 正直、私は今も自分の父を毒親という言葉で表現していいのかはわからない。 でも、私にとっていい父親ではなかったと、ようやく思えるようになった。 長い間、父がおかしいのか、自分が求めすぎているのか当にわからなかったの

    自分の父が毒親だとわかった日
  • 子育て終わった!やったーー!!【問い合わせに関する追記】

    7/11 なんかツイッターの有名な方に拡散していただいたようでありがとうございます!!!とんでもないことになってしまった… 子育て終わった開放感で書き殴った日記がこんなことになるとは思ってもみませんでした。 取材に関しては、別の媒体で内容を掲載されることで息子に微妙に違ったニュアンスでこの日記の内容が伝わってしまうもしれないリスクがあるので申し訳ありませんがお断りさせてください。 ひぇーーーー!なんかめちゃくちゃ読まれてる!!今更恥ずかしい!! お祝いのコメントありがとうございます!!! めちゃくちゃ嬉しいです!!! 子どもはインスタとかビーリアル(ビリアル?かどっちか)をちょっとしかやってないらしいし、仕事に関する勉強で忙しいらしいからこの日記も読まれないと思ってはいるけど、もし読んじゃったら教えてね!!! 私が当は愛せるか分からなかったし子供産むの怖かったって話はちょっと前チラッとし

    子育て終わった!やったーー!!【問い合わせに関する追記】
  • 手取り19万円の栄光の終わりに

    舵のない舟 かくて早くも彼の心は、洗練された隠遁の地、心地よき無人の境、人間的愚かさの絶えざる氾濫を遠く逃れた、びくとも動かぬ、なまぬるい方舟を夢みつつあった。 ユイスマンス『さかしま』 さかしま (河出文庫) 思えばおれの人生というのは舵のない舟に乗って川を流れてきただけだ。みすぼらしい帆や、壊れかけのエンジンはついていたかもしれない。ただ、流れてくるように、流れてきた。 おれは人生に興味がなかった。正確にいえばおれはおれの人生に興味がなかった。明日、どうしよう。五年後、どうしよう。大人になったら、どうしよう。なに一つ向き合ってこなかった。 親だとか誰かだとかにいわれるがままに、適当に流れてきた。意思というものがなかった。 べつに親だとか誰かだとかを信じていていたとか、そんな話もない。自分は確固たる意思をもって、意思を持たずに生きてきた。 人生の岐路に立って自分で道を選んだという覚えもな

    手取り19万円の栄光の終わりに
  • 妻の七回忌終わった時点での感想

    やっぱり俺は薄情かもしれない 葬式の時以来泣いた覚えないし 墓参りは義両親や友人をアテンドするときしか行かねーし 仏壇にいたっては法事の時しか手を合わせてない まぁ生前も墓やら仏壇やらイミフって感じだったしそこは許しねってことで だからと言ってのことを思わない日は無い 特に「娘の今をに見せたかった」ってのは毎日思う 娘が立って歩いたり、しゃべったり、保育所で仲のいい子ができたり、歌うのが好きだったり、 ごはんが美味しいときに黙ってサムズアップしたりするのをは全部知る前に逝ってしまったから 「あの時死ぬのをがためらってくれていたら」、「俺がにもっと寄り添っていれば」、 「実家がの症状をもっと理解してくれていたら」なんていうタラレバが頭をよぎることはあるが 熱量的に言えば「今日の晩御飯何作ろう?」の方が大きい 父子家庭だからと言って育児で困っていることはほぼ無いというか には申

    妻の七回忌終わった時点での感想
  • 正常独身青年、先祖の戸籍を取り寄せる

    アブスト 結婚の見込みがない29歳正常独身青年が、ご先祖様に申し訳ないという気持ちから先祖の戸籍を請求した。6市町から31通の戸籍謄を取り寄せ、Excelにまとめた。戸籍制度の変遷や行政区画の歴史を知ることができ、何故か海外移民の歴史にも繋がり、祖父母との会話のきっかけにもなった。独身の暇つぶしにはもちろん、子供の自由研究にもおすすめである。かわいいあの子と新戸籍編製したい。助けて。 背景・目的俺が末代だ(誤用)→ ご先祖様に申し訳ないにゃあ → そもそも先祖って具体的に誰やねん → そうだ、戸籍、取ろう ワイ、29歳素人童貞。自分は子孫を残せないかもしれないというぼんやりした不安がいよいよ現実味を帯びてきた今日この頃。親にも祖父母にもご先祖様にも顔向けができぬと思った時、はて自分の先祖ってどんな人たちだったんだらうという疑問が湧いてきた。祖父母に聞いてみても、こんな先祖がいたという話は

    正常独身青年、先祖の戸籍を取り寄せる
  • 漫才師としての活動休止について〜シングルファーザー日記最終回含む〜|ハチミツ二郎

    2024年3月24日をもちまして東京ダイナマイトの漫才師としての活動は休止となりました。 無料記事にすると関係ない奴がウダウダ言ってくるのですみませんが有料記事にします。ファンの方だけ読んでください。 勿論無断転送は禁止です。切り取りの無断転送もです。発見した場合、然るべき処置を取ります。 活動休止の理由は、じろちゃん好き好き隊(東京ダイナマイト公式YouTubeチャンネル参照)が集まらなかったこと。 ふざけてるように聞こえるかも知れませんがこれが当の理由です。 もう当に劇場に行くことすらシンドいんです。かといって総ての稼働をタクシーで行くわけには行きません。 替わり替わりでも運転手さえいればなんとかなったのですが、それも集まりませんでした。 コロナで重症化してしまい、それが第2波の頃だったので、延命治療という名目で全身麻酔で眠っている間に首に穴を開けられ人工透析が始まってしまいました

    漫才師としての活動休止について〜シングルファーザー日記最終回含む〜|ハチミツ二郎
  • 生活を、している

    4/8 追記 思った以上にたくさんの方に読まれて驚いています。 ブラジャー外干はありえんって意見が多かったのでググったら確かに危なそうだったんで室内に干したいんですけど、ワコールの店員さんに洗濯機の脱水は使うなって言われてるんですよ。だから自力で絞るしかないんですけど、それじゃヒモとかから水がぼたぼた垂れません?みなさんどうされてるんだろう。 ↑コメ欄の方ありがとうございます!バスタオルで挟むのやってみます! 後母親と一緒に買うものだと思ってたってコメント見たけど、「アンタ胸ないのにブラなんていらんでしょ」で終わらす母だったのでそれは仕方ないです。 追記終わり ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 産まれてこの方カップ付きキャミソールしか着てこず、ブラジャーを買ったことすらなかった。 ブラをする必要もないぐらいの胸の大きさだし、彼氏も居たことないので買うことすら思いつかなかったけど

    生活を、している
  • 俺の実家は太い

    実家が太い云々という増田を目にして、俺もつい自分の人生について書きたくなった。 約30年前、俺は両親が医者の家庭に長男として生まれた。 医者というとなんとなく世間的にもお金持ちのイメージがあるだろうが、事実裕福な家庭に生まれたと今でも思う。 そんな俺だが、結局30も手前になって職歴なしどころか学歴すらない立派な引きこもりに成り果ててしまった。 まず前提として俺の家系は代々医者の一族で、父方の祖父が地元(と言っても俺の住んでいる市内)でおそらく一番大きい総合病院の理事長をしていた。 その祖父の思想が強く、医者でなければ人間でないと言わんばかりの態度を常に振り撒いていた。 母方の祖父母は確か医者ではなかったと記憶しているが、いつだったか父方の祖父母の家に連れて行かれた際、「あまりあっちのじいじ・ばあばと話をすると頭が悪くなっちゃうぞ」などと耳打ちされたことを今でも覚えている。 当時は家や身なり

    俺の実家は太い
  • 15年間いた奨励会を退会しました。僕の将棋人生の感想戦です。|西山晴大

    2024年2月3日の三段リーグの結果にて、勝ち越し延長の可能性が消え奨励会退会となりました。 日将棋連盟の奨励会は、将棋のプロ棋士を目指す若者たちが訓練し、技術を磨くための組織です。奨励会のメンバーは厳しい選考を経て入会し、定期的に開催されるランキング戦に参加しながら、プロ棋士になるための段階を一つ一つ登っていきます。 奨励会は三段から6級までで構成されており、二段までは東西にわかれて行い、規定の成績を上げると昇級・昇段となります。三段になると東西をあわせてのリーグ戦を半年単位で行い、上位二名が四段に昇段し、正式に棋士となります。 https://www.shogi.or.jp/match/shoreikai/ より。 奨励会は将棋を学び、上達したいと願う若者たちにとって非常に価値のある場所であり、将棋界の未来を担う才能を育成するための重要な役割を果たしています。プロになることは非常に難

    15年間いた奨励会を退会しました。僕の将棋人生の感想戦です。|西山晴大
  • 妹が自殺して2年[追記しました]

    追記: いっぱい見てくれてありがとう。 気遣ってくれたブクマカたち、ありがとう。 もちろん、事実も真実も今俺がどこでどんな暮らしてるかも全く知らないくせに、書いてもないことを妄想や憶測や曲解や邪推で補完して膨らまして、 俺を批判したり同情したり憐憫したりアドバイスしたりしてくれたブクマカたちにも、ありがとう。 それを無意識のうちにやっている人も、自覚的にやってる人も、いるなと思いながら目を通した。 でもまあ、それはいいんだよ。 それが欲しくて増田に書いたし、 俺は生きてるから。 俺の言動の意図がねじまがった形で波及して、求めてもいない影響をどこかやだれかに及ぼしてしまって、 俺自身が誤解されたり損害をうけたりすることがあっても、 俺自身が弁明や訂正をできるから。 俺は生きてるから。 死者にそれをやるのは卑怯だよね。だって死者は、裁判で訴えることも言い返すことも説明することも訂正することも弁

    妹が自殺して2年[追記しました]
  • 祖父のような人が、昨日死んだ。

    祖父のような人が、昨日死んだ。 血の繋がった祖父は、自分の生まれる前に亡くなっていた、少なくとも父方の祖父は、割と早くに亡くなったらしかった。 母方の祖父は、母親が子供の頃に祖母と離婚しており、多分早くに亡くなったのだと思うが、仮に生きていても会うことはなかった。自分がいつそんなことを聞いたのかは確かではないが、物心ついた自分が、血の繋がった祖父、というものを意識した時にはどうやら亡くなっていたらしいのは確かだ。 「祖父のような人」は、僕が生まれるずっと前から、祖母と一緒に暮らしていた。多くの人が誰しも持つ思い出のように、自分も子どもの頃、祖母と彼の住む家に遊びに行き、甘やかされ、小遣いをもらい、トランプやら野球やら将棋やらをして、思う存分に遊んだ。 将棋のルール、司馬遼太郎、池波正太郎、他にもいろいろと、今ではどれが彼に教わったものか一々思い出せない程、いろいろなことを彼は教えてくれた。

    祖父のような人が、昨日死んだ。
  • 夫が死んだ

    私たちには子どもがいなかった。 お互いの友人はそれなりにいたが、夫婦としての社会的なつながりはほぼ無いと言ってよく、たまにこの世界でふたりぼっちなんじゃないかという感覚があった。 それで良かった。お互いが一番の友人だった。 ふたりだけで、楽しかったし他に何も要らなかった。 人はいつか死ぬ、そんなことわかってる、でもあと少しだけ、あと少しだけを重ねるような日々だった。 私はひとりぼっちになってしまった。 さみしい

    夫が死んだ
  • 5歳で亡くした母、毎年届いた「天国からの手紙」…20歳迎えた娘へ最後のメッセージ #令和の子(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース

    5歳で母を亡くし、松山市のファミリーホームで育った大学生の梨菜(20)には、ずっと大切にしている手紙がある。母の順子が34歳で亡くなる直前、将来の娘を思い浮かべてしたため、20歳まで毎年の誕生日に届けるよう弁護士に託していた。その最後の1通が2023年12月、梨菜の元に届いた。 【写真】児童養護施設に入所していた頃の梨菜さん。あまり感情を表に出さなかった(2010年、神戸市で)=梨菜さん提供 梨菜は今、児童福祉司を目指し、福岡のマンションで一人暮らしをしながら、大学に通う。アルバイトをかけ持ちし、課題のリポートや実習をこなす。化粧品の販売員をしていた母の影響だろうか。メイクの楽しさを知り、鏡を眺めていると、「お母さんに似てきた」と思う。 たった一人の家族だった母を亡くしてから14年余り。困難に直面した時、さみしさで押しつぶされそうな時、母からの手紙を読み返し、その字を指でなぞってきた。 〈

    5歳で亡くした母、毎年届いた「天国からの手紙」…20歳迎えた娘へ最後のメッセージ #令和の子(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース
  • 最後の投稿です

    16年と半年前、57歳になったばかりの2007年の9月に初めての投稿をしました。その2ヶ月くらい前から閲覧はしていた気がしますが閲覧履歴のようなものはないためわかりません。 ちょうどその頃、勤務していた会社で役員に昇格したばかりでした。法学部を卒業し新卒で入社して以来、ひたすら営業畑にいた私が役員になってから与えられたのは情報システム部を含むIT分野でした。 その10年前ごろから会社にパソコンが導入され始め、総務部門にいた同期が悪戦苦闘しており「大変そうだな〜」なんて気楽に思っておりましたが、まさか自分がそれらを統括する立場に置かれるとは思いませんでした。 IBMが主催する勉強会に参加したり、書籍を購入したり、パソコン教室にも通い、DELLデスクトップPCを購入して大学生だった息子に助けられながら設定をしていました。 インターネットを徘徊する中で見つけたのがはてな匿名ダイアリーです。 結

    最後の投稿です
  • 娘の保育園の運動会に参加したことについて

    娘の運動会には毎年必ず参加する。 今年は運動会のプログラムに強制参加の保護者競技があった。 私が娘の帽子をもらって入場門の列に並ぶと、周りは誰かの父親ばっかりだった。応援席では誰かの母親が頑張れって応援してて、児童席では私の娘が真顔でこっちを見ていた。私は元々運動は得意では無いので、保護者競技は余裕で最下位だった。 うちに夫はいない、2021年に他界している。 保護者競技が終わったあと、 退場列の中で、他所の家庭の声援を聞きながら、ふと、ここに夫がいれば良かったのに、と思ってしまった。 「いれば良かったのに」が脳内で勝手に 「(生きて)いれば良かったのに」に高速変換される。そして「もういない」と続く文章を自覚した瞬間に、突然いろんな言い訳と後悔と思い出がどばどば溢れてきて涙が止まらなくなった。 肩凝りがやばいって笑う夫に湿布を貼ったこと、なんてマヌケなんだろう。コロナ禍なんて気にせず病院に

    娘の保育園の運動会に参加したことについて
  • 脳の血管が爆発した話|軟骨

    ごきげんよう。 整形の後編を綴る前に、とんでもないことが起きたので先にそっちをエピソードを供養します。 8月21日。その日も暑い日だった。会社での昼休みにいつも通り楽しく談笑しながらおじさんズと後の一服をしていたら、首の後ろ側が攣ったみたいにピーン!と固くなった感覚と共に結構な痛みが広がってきた。ジワジワと後頭部に広がりながら増していく痛みと若干の吐き気。これは強さも種類も経験したことがない頭痛だ…何かがおかしい…。 そう考えた私は閃いた。 熱 中 症 だ ! ! ! そういえば事務所内にいることもあってあまり水分をとってなかった気がする。そうだ、これが噂の熱中症なんだ。とりあえず頭が痛すぎる。気持ち悪い。無理せず帰ろう。帰ってポカリ飲んで寝よう。 頭痛的に自分で車を運転して帰れる自信がなかったため、両親に会社まで迎えに来てもらい早退した。あまりにも子供部屋おばさんすぎるが緊急時にそんな

    脳の血管が爆発した話|軟骨