「今からそちらへ行ってお前に頼みたいことがある」 唐突な電話から2時間後、中上健次は僕の初台のアパートに居た。はじめて見る背広姿だった。ネクタイがうまく衿元にフィットしていなくて、妙な感じだったのをよく覚えている。 「30万円貸して欲しい。芥川賞を獲ったらその賞金で借金は返す」 なるほど芥川賞の賞金は当時30万円だった。要はこうである。酒場で喧嘩をして、傍にいた人に怪我をさせてしまった。向こうは警察に訴えると言っているが、30万円あれば示談が成立しそうだ。なんとか都合してくれ。 金もないのに二人でつるんで飲み歩き、しょっちゅう酒場で殴り合いはしていたがこんな事件に発展したのは初めてだった。中上健次はいつになく神妙にしている。すでにフォークリフトの運転手をしていた会社はやめていて、金は常になかった。 僕の預金通帳には50万円程があった。大学を出て入社した会社をすぐに辞めて1年間遊び暮らし、よ