タグ

ブックマーク / arabic.kharuuf.net (5)

  • 公正世界信念、「別の誰かが知っている」ということ

    こんな文章がありました。 地震と津波:人々は,どのような場合に被災者を責めるようになる? – 東日大震災を乗り越えるために:社会心理学からの提言と情報 短いので全文引用させて頂きます。 災害時には、不謹慎ともとれるジョークを発してしまい、あとで謝罪に追われる人々が必ずと言っていいほど出てきます。こうした人々の行動を説明するのは,「公正世界信念(the belief in a just world)」と呼ばれる社会心理学の理論です。この理論の基的な考え方は,「世界は公正にできており,努力した者は報われ,努力しない者は報われない」ということです。つまり,「良いことをした人には良いことが,悪いことをした人には悪いことが起こる」という信念です。 この公正世界信念は,思いやりのある行動を促進するでしょう。なぜなら,(例えば)他者に良くすることで,自分がほめられることが期待できるからです。しかし,

    公正世界信念、「別の誰かが知っている」ということ
  • 羊は迷うのか

    羊とは縁が深いですが、「迷える子羊」というのは、キリスト教文脈でよく使われるイメージです。 とりわけ、99匹の羊のお話が好きです。これはマタイとルカの福音書にあるもので、新共同訳だとこうなっています。 18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 18:11:<底に節が欠けている個所の異による訳文>人の子は、失われたものを救うために来た。 18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた

    羊は迷うのか
  • 死の経験

    わたしたちは死を経験するのだろうか。 勿論、死を経験した者は、地上のわたしたちの中にはない。そうではなく、当に死を迎えた時にすら、死の経験、あるいはまた死に付随する経験をも、経験しないのかもしれない。 別れを告げるどころか、死んだことにすら気づかず死ぬかもしれない。 わたしたちは死についてあれこれ想像するが、多くの場合、死に際して何かを言い残したり、あるいは十分に苦しんだりするように、考えている。 苦しむ間もなく死ぬなら、それは割合に「良い死」かもしれない。1 だが死を経験することすらない、というのは、恐ろしい想像でもある。 死に付随する経験ではなく、死の経験というなら、そもそもがそれは、不可能な経験なのだ。生きているわたしたちも、死んだ者たちも、死など知らない。 だから、死が近づいてから悔い改めよう、などというのでは遅すぎる。 今この瞬間、正しく生き、祈りを欠かさないようにしなければな

    死の経験
  • 胡散臭い覚醒

    宗教臭い文脈では「覚醒」という言い回しが使われることがしばしばありますが、これが陶しくて仕方ありません。 覚醒。実に胡散臭いです。一昔前のSF小説で超能力か何かに目覚める話のようです。 大体、覚醒だの目覚めだの言って突然狂ったように動き出す人間は、ロクなことをやりません。恒久平和とか祖先の供養とか言いながら、浄水器でも売り歩いたりするのが関の山です。覚醒したいならシャブでも打って好きなだけ一人で目を覚まして頂きたい。 覚醒なんかより、普通のことを普通に粛々とこなしていく方が、ずっと立派で難しいです。少なくともわたしにとって、イスラームは非常に「普通」なもので、変な石を有難がっても何もありませんよ、スペシャルなことは基ありませんよ、淡々とやれ、というのが大事だと思っているので、覚醒だの何だの言われると、どうにも違和感があります。 どちらかというと、正しい眠り方を教えてくれるものとして、信

    胡散臭い覚醒
  • 一つの多神教という日本的ファンタジー

    『原理主義から世界の動きが見える』の中で、手島勲矢氏が、「一神教」と「多神教」についてハッとさせられることを書かれています。「一神教」「多神教」という構図をこれほど多用し社会現象に援用するのは特殊日的であり、その背景には「一つの(日的)多神教」という暗黙的な了解があるのではないか、という指摘です。 ちょっと長くなりますが引用しておきます。 (・・・)高度な抽象概念「一神教」「多神教」を、堂々と形而下の生々しい国際紛争と結びつけてしまう――こういう発想は、欧米の学者からは出てこない。彼らにとって、「一神教」「多神教」の区別は、あまりにも学術的な区別であって、それらを具象的な現象に援用するのは宜しくないのだ。しかし日では、識者だけでなく一般人も、この区別を違和感なくすんなり受け入れている印象がある。 この理解のギャップから私が思うのは、日人の論じる「一神教」「多神教」という区別は、欧米

  • 1