メルマガ「山崎行太郎の毒蛇通信(2021 /10/31)「総選挙なんてしらないよ。」ー「江藤淳とサルトル」を送信しました。「文学と哲学を知らずして政治や経済を語ることなかれ」 山崎行太郎のメルマガ『毒蛇通信 』 https://www.mag2.com/m/0001151310.html
「飯山陽(いいやま・あかり )」という美人のイスラム研究者(笑)、がいる。Twitter界隈で、そのネットウヨ的言動が人気になり、その方面では、すっかり有名人となっている「人物」らしい。何を勘違いしたのか、イスラム研究者の代表的存在であるかのような言動が、目障りなので、ちょっと「皮肉」をこめて、チョッカイをしてみたところ、威勢のいい反応が帰ってきた。面白いので、小生も、反論することにする。飯山陽女史は、「東大博士」らしく、「ドクター・飯山陽」と称している。この「ご印籠が見えないのか」ということだろう。ますます面白くなってきた。 実は、『維新と興亜』というマイナーな右翼民族派の思想雑誌で、最近のネットウヨ雑誌( HANADA、WILL、正論・・・)を、批判する企画が進行しているらしい。小生にも、声がかかったので、暇を持て余している「独居暴走老人」は、喜び勇んで参加することにした。 この飯山陽
■『江藤淳とその時代 』(2)〜サルトル哲学とその影〜 江藤淳も、日比谷高校時代は、「仏文学」に憧れる、一介の「文学青年」だった。しかし、江藤淳は、「文学青年ごっこ」をいつまでも演じ続けられるほど、呑気な立場にはいなかった。一家の家計は逼迫し、江藤淳自身も結核で高校を一年休学し、留年しているほどである。「死」や「病気」や「貧困」に憧れるのは「文学青年」や「文学少女」の特権であるが、しかし、「死」や「病気」や「貧困」に現実的に直面している人間に、そんな余裕はない。慶應大学入学後も、結核を発病し病床に伏していた。日比谷高校時代は、まだ、文学好きの同級生たちと「文学青年ごっこ」にうつつを抜かしていられた。その頃は、堀辰雄の「軽井沢文学」に憧れ、同級生たちと軽井沢の別荘で合宿するというような文学青年でもあった。しかし、次第にそういう状況に違和感を感じはじめていた。やがて江藤淳の中に大きな転機が訪れ
■新聞記者上がりのネットウヨ系の政治ジャーナリト「石橋文登」を見よ。その「スガ首相続投論」に抱腹絶倒す。さすがネットウヨ新聞「産経新聞」出身だな。 新聞記者や新聞記者上がりの政治ジャーナリトよ、消えろ。お前たちには、政局や政治の本質や現状分析を論じる資格も能力もない。裏方に 引っ込んでいろ。表にしゃしゃり出てきて、偉そうなことを言うな。 スガ首相が総裁選出馬を断念したそうだが、後は何処の誰れになるのか、などという野次馬的な政治評論に関心はない。私が関心があるのは、現代日本政治を堕落さぜた張本人たち 、政治記者や政治ジャーナリト、政治学者たちの醜悪な生態である。 たよえば、産経新聞関係の政治記者や政治ジャーナリトの怪しい動きが目立っていたが、この連中は 、 あくまでも私の「独断と偏見と妄想」で言うのだが、明らかに「官房機密費」の毒饅頭を喰い過ぎて、頭も口も麻痺しているとでも言うほかはない。「
■『江藤淳とその時代 ()』・・・サルトルの影・・・ 江藤淳は日比谷高校を卒業すると、そのまま現役で、慶応義塾大学文学部に進学した。江藤淳は、最初は、英文学ではなく、仏文学を専攻する予定った。当時の慶応仏文科は、サルトルの『嘔吐 』の翻訳者=白井浩司助教授や、後に慶応義塾の塾長になる佐藤朔教授らを中心に、フランス現代文学の研究や翻訳などの分野で、目覚ましい成果をあげていた。たとえば、サルトルの作品の翻訳は、ほとんどが京都の「人文書院」という出版社から、『サルトル全集』という形で刊行されていたが、そこで翻訳を担当する仏文学者たちの大半は、慶應仏文科関係者だった。サルトルの代表的な哲学書『存在と無』の翻訳者が、早稲田大学教授の松浪信三郎教授だったのが、目立つほどだった。江藤淳は、日比谷高校時代からサルトルを読んでいたし、フランス語の勉強も始めていた。江藤淳の文学仲間の同級生たちも、後にフランス
■郷原信郎センセイ、山中竹春の「経歴詐称」って、なんのことですか。(■註■以下の記述に関しては、証拠、資料、文献がありますが、今は、公表しません。) 私は、横浜市長選挙の結果などに興味があるわけではありません。大学教授の「経歴詐称」にも興味ありません。そもそも大学教授に「資格」や「免許」など不要です。私が興味あるのは、「郷原信郎」という弁護士の正体です。私は、郷原信郎が、執拗に、横浜市長選挙で「圧勝」した元横浜市大医学部教授の山中竹春の経歴詐称やパワハラ発言を追及しているのを、最近、知りました。なんとなく興味を持って、調べていくうちに、これはちょっと「おかしい」「何か変だな」と思うようになった、というわけです。郷原信郎とは何者か。私は、むしろ、郷原信郎という弁護士の「人間性」に興味を持ちました。 さて、郷原信郎よ、早稲田大学理工学部大学院修了で、横浜市大医学部教授に就任という経歴が「経歴詐
■郷原信郎とかいう弁護士( 元検事 )の正体 、見たり、枯れ尾花。 郷原信郎とかいう弁護士については、民主党政権誕生の前後に起こった「小沢一郎冤罪裁判」の頃から知っている。知っているといっても面識があるわけではない。その頃から、なんとなく虫の好かない奴だと思っていた。何やら、エリート臭プンプンで、上から目線の喋り方に、「いかがわしいもの」を感じていたのだ。ところで、その後、その、はったりじみた言動が飽きられたようで、マスコミに出る機会も減り、あまり見かけることもなくなった。いいことだと思っていた。しかし、最近、久しぶりに「Youtube動画」の世界で、見つけた。相変わらず、去勢をはった、「上から目線」の喋り方で、世相問題を論じているのを見て、「変わらないな〜」と思っていたのだが、今、話題の「横浜市長選」に立候補したという報道に、「相変わらず、馬鹿だな〜」と痛感したものだ。以前には、広島か何
マララとタリバン。 私は、マララ・ユスフザイとかいうパキスタン出身の女性人権活動家で「ノーベル賞」受賞者のことが、昔から嫌いである。話題にもしたくない。オックスフォード大学に入学したとか、オックスフォード大学を卒業したとかいう話もしたくない。私にとっては、ジャリタレの「芸能ニュース」以下でしかない。ところが、イスラム教原理主義の過激派=タリバンがアフガニスタンの政権をいうニュースが流れると同時に、またまた登場してきて、欧米民主主義イデオロギーの走狗として、言い換えれば、「植民地主義者」(?)の顔丸出しの頓珍漢なコメントを出しているようだ。タリバンに制覇されたアフガニスタンが心配だ、女性の教育や女性の人権を認めないイスラム原理主義とタリバンは、民主主義に反する・・・と言うわけだろう。 ところで、アフガニスタンの第二の都市、シャララバードでは、タリバン支配に抗議する「反タラバン・デモ」が起きて
■純文学の神髄は同人雑誌にあり。 純文学という言葉は、近ごろ、あまり使われないようである。純文学と大衆文学という二分法も、あまり使われなくなっている。何故だろうか。私は、純文学という文学それ自体が消滅しつつあるからではないかとおもう。しかし、私は、純文学という文学にこだわっている。何故、純文学にこだわっているのか。私は、純文学の可能性を信じているからだ。それは、純文学の可能性であって 大衆文学の可能性ではない。純文学は売れなくていい。売れる必要はない。「純文学も売れなければならない」と言い始めた時、純文学は純文学ではなくなったのである。私は、大衆文学が存在することも、大衆文学の可能性や将来性に命をかけている人がいることも否定しない。私が、大衆文学に興味がないだけである。私は、文芸雑誌に問題があるとおもっている。日本には、大手出版社が発行する文芸雑誌というものがあり、それらは、おもに純文学系
■再び「江藤淳の原点=十条仲原」について。 前回に続いて 、再び「江藤淳の原点=十条仲原」について考えてみたい。どうしても解けない謎が残っているからである。江藤淳は、日比谷高校を卒業して、現役で、慶應義塾大学文学部に進学している。東大受験に落第し、合格した慶應義塾大学に進学したと書いている。私が分からないのは、その後、日比谷高校の職員室に恩師を訪ねて、慶應の真新しい制服制帽姿で、慶應進学を報告に行ったと、自筆年譜その他に書いているところだ。その時の「君も案外、伸びなかったね」という恩師の冷たい反応(言葉)に、江藤淳は激怒し、二度と母校=日比谷高校を訪問していない、と書いているところだ。しかし、「東大合格者数日本一」を誇る日比谷高校の職員室だ。恩師とはいえ、「東大合格者数」という数字( 売り上げ )に身命を注ぐ企業戦士である。所詮、サラリーマンなのである。恩師の反応は、充分 、予想されたこと
パンデミック( コロナ禍)大流行の中のオリンピック開催に反対した人は少なくない。しかし、日本政府は、オリンピック開催を強行した。それはそれでいい。
■商業文芸誌の書き手の中心は、何故 、文藝評論家から「ライター」にとって代わられたのか。 いつの頃だろうか、多くの有能な文芸評論家たちが、商業主義文芸誌から消えた。文芸誌は、商業主義を追求するあまり、文学の原点を忘れ 、「売り上げ」が文学の基準になり、結果的に文学は、商業主義を追求するあまり、商業的にも衰退し、文学自体も社会的に地盤沈下し、存在意義を失っていった。つまり、文学の重要な存在根拠だった「文芸評論家」が、文芸誌や文壇から排除され 、追放されることによって、文学は衰退していったと言っていい。何故か。ここに、現代日本の文化的貧困化、文化的窮乏化の具体的な見本があると、私は思っている。文芸評論家には、曲がりなりにも「批評」があった。批評とは何か。文学批判や小説批判の能力である。批評的思考力である。しかし、ライターにはそれがない。ライターには、文学や小説を批判したり、批評したり、否定する
■竹中平蔵とオリンピックとネット右翼世代。 竹中平蔵が、経済三団体の代表が揃ってオリンピック開会式に欠席するという情報で、本性を露わにして、怒りまくっているようだが、何故、竹中が、オリンピックの開会式不参加ごときに、それほど興奮するのか。不思議だったが、納得がいった。オリンピックに邁進するスガポンコツ首相を影で操っているのが竹中平蔵と竹中一派だったということだろう。オリンピック強行の裏には、政財界の「フィクサー=竹中平蔵」がいたというわけか。なるほど。そうだったのか。そういえば、成田空港の検疫所あたりには 、パソナの「派遣社員」で、しかも「中国人」の派遣社員が溢れているらしいが、オリンピック開催に一番熱心なのが、竹中平蔵だとすれば、納得がいく。 竹中平蔵は 「オリンピック開催反対」を「世論」だと思っているらしい。そして「自分の考えは世論とは逆だ」が、しかし、「世論は間違う」と言いたいらしい
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