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2013年4月20日のブックマーク (6件)

  • [mina]初男性モデルに元ヴェルディユースの竹内峻さん 「彼氏にしたい」で2500人から選出 | エンタメ | マイナビニュース

    surumeno13
    surumeno13 2013/04/20
    人材豊富すぎる
  • 福島発 生活苦にあえぐも生活保護受給せず母親が長男殺害

    卒業式の朝、小学校生活最後の登校をするはずだった少年が、目を覚ますことはなかった──。3月22日、福島県二松市の自宅アパートで、就寝中の長男・青空(せいら)くん(12才)の首を絞めて殺害したとして、母親の渡辺みゆき容疑者(33才)が逮捕された。 式が始まっても青空くんが登校しないことから、心配した担任教諭が自宅を訪れたが応答がなく、近くの駐在所に相談。同日午後8時、渡辺容疑者が「子供を殺した」と二松署に自ら自首してきたという。 渡辺容疑者と青空くんは、小学校近くにある家賃4万円の2DKのアパートに母子2人で暮らしていた。 「お父さんとは、まだ青空くんが小学校に上がる前に離婚したみたいで…。お母さんは近所づきあいもほとんどなく、学校行事にも参加することのない物静かなかたでしたよ。青空くんもおとなしい子で、いつも放課後、校庭のブランコに1人で乗って遊んでいました」(学校関係者) 交友関係は

    福島発 生活苦にあえぐも生活保護受給せず母親が長男殺害
    surumeno13
    surumeno13 2013/04/20
    福島は早い結婚も離婚も多く、母方の両親の元に戻って子育てをする場合が多いけど、それができないとなると厳しい。身内が面倒をみる考え方が強くて福祉を頼ることを良しとしない人も多いのだよね。。
  • 朝日新聞デジタル:競技場への感謝、ガツンと J1川崎の本拠で「破壊式」 - 社会

    スタンドを「破壊」するサポーター=20日午前、川崎市の等々力陸上競技場、池永牧子撮影  サッカーJ1・川崎フロンターレの拠地「等々力陸上競技場」(川崎市中原区)で20日朝、サポーターらがハンマーなどで思い出深い旧メーンスタンドを壊す「破壊式」があった。一風変わった方法で感謝と別れの気持ちを表したい、と支援団体が企画した。  約80人が参加。ロッカールームの壁にチームや選手へのメッセージを書き込んだ後、コンクリート製の応援席を壊していった。家族で参加した川崎市中原区の横浜市職員小川尚子さん(39)は「一喜一憂しながら見た試合を思い出し、次のスタンドへの思いを込めて壊した」と話した。  1967年にできた旧メーンスタンドは老朽化のため、昨年から建て替え工事が始まっている。新スタンドは2015年に完成予定で、約3400席から約1万席に増える。工事中の試合では、仮設スタンドが使われる。

    surumeno13
    surumeno13 2013/04/20
    フロンターレ色のヘルメットがよいですね。
  • 47NEWS(よんななニュース)

    京アニ放火殺人、事件の背景に見えてきたのは…ロスジェネ世代の「一発逆転の呪い」 雨宮処凛さんインタビュー

    47NEWS(よんななニュース)
    surumeno13
    surumeno13 2013/04/20
    「この担当者が地元ラジオ局に語ったところによると、ヘクター監督の運転する車が激しい雨に見舞われた地域の大きな穴に落ちたという」
  • 日本リーグ昇格からボイコット事件まで 全日空チーム内では何が起こっていたのか

    全日空1部昇格記念試合、古河電工との試合後。ゲストプレイヤーのケビン・キーガンと。 ───前回に引き続き、全日空時代のエピソードをお伺いします。 振り返ると……1980年代前半、横浜トライスター時代に早稲田大学と練習試合をやったのですが、元五輪代表監督の関塚隆君とか、城福浩君たちがいた頃で、今でも「あのとき李さん上手かったねえ」なんて言われることはありますよ。 あ、ちなみに私が言わせたわけではないですよ(笑)。 選手、監督、GMすべてを経験した20代 ───李さんが基礎を作った全日空はやがて横浜フリューゲルスというチームになっていくわけですが、何か思い出されるエピソードはありますか? 当時、全日空は練習場を持っていないジプシーで、全日空の役員の人から「羽田にこんな土地があるけど」という話が来て、私が賛同すれば自前の練習場を持てるはずだったのですが、どうにも狭いというか中途半端な土地でした。

    日本リーグ昇格からボイコット事件まで 全日空チーム内では何が起こっていたのか
    surumeno13
    surumeno13 2013/04/20
    この事件関係者はつい先日、処分が解除された。
  • 香港から帰国後、サッカーを辞めてから全日空に加入するまでの経緯

    読売クラブ西ドイツ遠征にて。後列右端のサングラスの男性は松木安太郎氏のお父様。 ───1977年に香港から帰国した後は、サッカーを辞めてしまったのでしょうか? もう当にサッカーを辞めようと思いましたよ。横浜生まれ横浜育ちだから、貿易はなくならないだろうということで、貿易会社をやろうとしていました。親戚が大阪で貿易会社やっていましたので、そこへ勉強に行きました。 1977年か1978年か、そのぐらいに大阪に行きまして。大阪にはいとこ兄弟がいたんです。いとこの弟はとても成績優秀で大阪大学を卒業して日立製作所に就職しようとしていました。しかし、選考に落ちてしまうわけです。在日ですからね。そういう時代でした。 そこで彼には「お前がこの会社に入れ」と言いました。私がいた貿易会社は小さな会社ですから、何人も雇えるわけではありません。だから「弟である君が会社に入って、私は横浜に帰るよ」と。 それで私は

    香港から帰国後、サッカーを辞めてから全日空に加入するまでの経緯
    surumeno13
    surumeno13 2013/04/20
    1970年代サッカー事情の貴重な証言。