江戸時代以前の日本の認識 日本の北方は「蝦夷」であり、蝦夷にはたくさんの島があるという意味で、「千島」「蝦夷ヶ千島」と呼んでいた。 「蝦夷」とは、華夷思想に基づく異民族の呼称。 19世紀、始め頃 カムチャツカから北海道の間にある島々をヨーロッパでは「クリル」と呼んでいた。 日本では、「クリル」と「千島」は同じものとしていた。 ハボマイ、シコタンが千島に入るか否かは定かでない。そのような厳密な呼び名ではなかった。 江戸時代、北海道は「和人地」「蝦夷地」に分けられていた。最初、和人地は松前城下周辺の狭い地域だったが、徐々に範囲を拡大し、1800年代になると、西海岸は「熊石」以南、東海岸は「野田追」以南と、渡島半島全域にまで拡大した。 和人地は、松前藩の完全支配下にあったが、蝦夷地は松前藩の充分な支配下にあったわけではなく、独自にロシアとの交易を行っていた地域もある。 1855年、下田条約(日露