宗教と哲学に関するt-hirosakaのブックマーク (2)

  • アブラハムとイサク - charisの美学日誌

    [読書]  旧約聖書『創世記』第22章 (写真は、レンブラントによる「アブラハムとイサク」) 若い人たちと旧約聖書の読書会を始めた。まだ『創世記』を読んだだけだが、第22章、アブラハムによるイサク奉献の物語は、いろいろなことを考えさせる。まず、アブラハムが動揺したり悲嘆にくれたりすることがまったくないのが不思議だ。『アウリスのイフィゲネイア』におけるアガメムノンは、娘イフィゲネイアを生贄に捧げるように神託を受けて、苦悩し、泣き、生贄を決意するまでに懊悩する長い時間が必要であった。ところがイサク奉献のアブラハムには、いささかの感情の揺れもなく、事態は淡々と進み、サラや息子イサクにも、生贄の件については何も語られない。要するに、ヤハウェによる生贄の命令は、家族にも一切秘密にされ、アブラハムしか知らないのだ。人にもにも黙って息子を殺すなどというのは、普通の感覚をもった人間のできることではな

    アブラハムとイサク - charisの美学日誌
  • ヴェーユと「イスラエル」 - Arisanのノート

    神を待ちのぞむ 作者: シモーヌヴェーユ,Simone Weil,渡辺秀出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2009/02/01メディア: 単行 クリック: 3回この商品を含むブログ (11件) を見る この全体のなかでいうと、とくに大きな論点というわけではないが、前から気になってることなのでメモしておく。 『重力と恩寵』を読んだときから気になっていたのは、ヴェーユが「イスラエル」と呼ぶものに対する、彼女の敵意の激しさである。 それが何のことなのかは、後で書くと思うが、あのを読んだときには、それはキリスト教の神父であるあのの編集者ティボンが、ユダヤ人であるヴェーユの非ユダヤ教的な面を強調するために、そういう箇所を抜き出したのだろうぐらいに思ってたが、そういうことではないようだ。 この件について、『神を待ちのぞむ』の「序文」のなかで、やはりカトリックの神父であるぺランという人は、次の

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