教育学に関するt-hirosakaのブックマーク (4)

  • (何かの予告としての)教育政治の思想地図 - もどきの部屋 education, sociology, history

    「戦後教育学」の捉え返しは、昨今の日教育アカデミズムで一つの潮流をなしている感があるが、教育社会学界では、広田照幸が『思想』2007年第3号(岩波書店)の「思想の言葉」に寄せた「教育学の混迷」が一つのスタンダードな認識となってしまい(かつて自分が書いた小文にも、そのまま借りた部分がある)、ごく一部の例外を除いて、それ以上の議論の深まりをみせていない。 また、昨今の教育政治をめぐる認識としても、同じく広田照幸が『格差・秩序不安と教育』(世織書房、2009年、ただし初出はさらに前)で提示した「三極モデル」――旧来保守・新自由主義・社民リベラル――がしばしば参照されるが、そのことによって、これまたそれ以上の議論の深まりはみられない。 そうすると、「戦後」についても「現在」についても、日教育政治をめぐる認識の初期値を与えているのは広田だということになるわけだが、それは彼が何か「政治」に関し

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  • 道徳充実論は間違っている - 今日行く審議会

    【主張】中教審 道徳充実へ真剣な議論を 以前,城丸章夫氏の道徳教育に関する主張を,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070531/1180570636とhttp://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070604/1180887839で紹介した。 城丸氏は, さて、時間特設の教育上の危険は、まず第一にこれをめぐる行政指導にある。行政指導によって特定の具体的内容と方法とを現場におしつけようとする傾向があることである。いや、そもそも「道徳」特設の政治的ねらいがここにあったともいえる。「道徳」を突破ロとして、現場の指導の良否善悪に対するいっさいの判定権を官僚が握りたいという意図は、「道徳」問題の発生以来、社会的に周知の事実である。学習指導要領が法的にどの程度の拘束力をもつかが論議の対象になると、当局者は、きまって「国がきめてどこが悪いか。そんな国

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  • 強制の教育 | KOYASUamBLOG2

    昨日のとは別の調査結果を 毎日 が報道している。 要するに、子どもに強制する教師が増えたという話だ。 これについては、私の著作で何度か指摘してきた。学力低下論とセットなのだ。昔の法則化運動なんかは生まれからして典型的な強制の教育思想だったが、そのことを鮮明にしてきている。 教育に強制はなじまない。強いられて、自律的な学ぶ人間は生まれにくい。強いられたら逃避するか、面従腹背となり、平和的な人間関係は構築できない。それでも強制の教育を教師が行うのは、強制を強制されるからなのだと思う。 多元的能力主義(世間で言うゆとり教育)がうまくいかなかった原因の一つは、この強制を一方の側で推し進めたからではないかと思っている。多元的能力主義は、自己選択・自己責任をその原理としていたが、選択に強制が働いていた。どのコースを選ぶべきかに強制が働いていたと思うのだ。競争圧力は、すぐに当は自分では選択できない仕組

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    t-hirosaka
    t-hirosaka 2008/02/06
    多元的能力主義(世間で言うゆとり教育)がうまくいかなかった原因の一つ
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