連続エントリ: 第1回 「《つながりの作法》 としての差別」(今回) 第2回 「《不定詞の束としての人格》という考え方」 第3回 「生の様式そのものとしての不定詞 infinitif」 第4回 「差別と批判の見分け方」 第5回 「【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化」 『週刊朝日』「ハシシタ」記事と橋下徹氏の件(参照)について、いくつかの議論を精読しました。*1 今回の騒動ではっきりしたのは、 何が差別で何が差別ではないか、理論的に説明できる人は一人もいない。 「批判」と「差別」の違いをどう考えるかに、その人の思想の原理がくっきりと現れる。 橋下徹氏は、私が生きざるを得なかった引きこもり状態について、「勾留のうえ、労役を科す」「生きる資格がない」 と言っていて(参照)、いわば私の人権を(というか命を)認めない人です。 しかし 《彼をどう批判するか》 のロジックには、慎重でありたい。 私はパ