益岡 賢 2005年8月16日 懐かしさとは、欠落を惜しむ心の湿りけではない。それは、まごうかたなき現実としてありながら、その現実を触知する術を奪われたものの無力感にほかならない。 特有の文体の下にまだ身を切るような切実さを持っていた頃の蓮實重彦が『反=日本語論』の中で書いていたこの言葉を、このところ政治的な文脈の中で頻繁に思い起こしている。 「私たちは何が起きているか知らなかったのだ」。 ナチス政権下で起きていたことについて、ドイツ人たちが後によく口にすることとなった言葉。そして、あまりにお粗末で非現実的な言い訳として大いに馬鹿にされた言葉。けれども、ドイツ人が(そして日本人も)よく口にしたこの言葉は、私たちが信じ込みたがるほど、あるいは私たちが自明視するほどありそうにないことなのだろうか? 青年たちの一部が兵務につき、町からいなくなる。とはいえ残された家族は、それ以外はさほど変わること