ここでは、平安京跡に関するコンテンツを画像・地図とともに公開しています。
日本で初めてのコンビニエンスストアができた東京・豊洲 2024年は、日本におけるコンビニ誕生から50年の節目だという。1974年、日本で初めてのコンビニエンスストアは、東京・豊洲にできたセブン-イレブン。それを足がかりに、セブン-イレブンはわずか2年で100店舗にまで拡大。あっという間に日本はコンビニ大国になった。いまも、セブン-イレブン1号店は豊洲の町中で営業を続けている。 そのセブン-イレブン1号店を取り囲む豊洲の町は、とてつもない町だ。 地下鉄有楽町線の豊洲駅で降りて地上に出ると、圧迫感があるほどの高層ビル群に見下ろされる。豊洲の交差点から南西に歩いてゆけばららぽーと。 豊洲の街並み 人口減少時代に3つの小学校が 豊洲公園を横目にゆりかもめの高架下を南西に進んでいけば、豊洲市場もそう遠くない。ゆりかもめは、豊洲市場の間を抜けて有明、そしてお台場へと、東京湾岸の埋立地をぐるりと走ってゆ
昨年2023年7月に閉館した「中野サンプラザ」が、取り壊し建て替えが出来ない状態にあります。 2018年に、建物の老朽化と中野駅北口の再開発事業の為に、中野サンプラザ及び中野区役所などを取り壊して、新たな建物の建て替えと新しい街づくりの為の計画が行われました。 所有建物がいろいろ入り組んでいる事から、中々その計画も進みませんでした 2021年に計画が本格的に決まり、2023年7月をもって中野サンプラザのビルは閉館しました。 中野サンプラザの中には、コンサートなどを行う大ホールの他に、ホテルや結構式場、レストラン、ボーリング場などが入っており、その全てが撤退しました。 2024年に取り壊しが行われ、2029年予定で、新しい建物、新しい街が出来上がる予定でした。 ところが、建設資材の高騰など、当初計画を大きく上回る開発事業費がかかる事になり、今年中の取り壊しも行われず、計画は頓挫しているとのニ
江戸時代以前に造られ、今はあまり使われていない"古道"。 (道マニア・荻窪圭さん) 「古道の魅力は、いろんな歴史の痕跡に出合えること。古道ならではの地形を上手く使った微妙なカーブや、道端にあるお地蔵様など、歴史の痕跡が残っている」 そう言う荻窪さんと一緒に旅をするのは、プロギャルのMAAACHIRIN(まーちりん)さん。2人が訪れたのは、目黒区中目黒。 (道マニア・荻窪圭さん) 「昔、渋谷には『渋谷城』と言われるお城があった」 都会の渋谷に、いまだ存在するという古道。その道を辿ると、かつて存在した「渋谷城」の痕跡があると言います。2人は、目黒区から「渋谷城」があった場所を目指すことに。 中目黒駅の北西に位置する場所には、1本だけ曲がりくねった道が存在。現在は舗装されていますが、約800年前から存在すると荻窪さんは言います。 規則性のある道路の中で、1本だけ曲がりくねっている特徴こそが、古道
東京の住宅街で未開通道路のトンネル工事がまもなく始まります。そこからわずか500mの距離に、もう1本のトンネルも並行して建設中。2本の未開通道路を阻む特徴的な地形が克服されようとしています。 崖を貫く2本のトンネル 東京の住宅街で、ある1本のトンネルが建設中。今年度中には、なんと500mしか離れていない場所にもう1本、並行するトンネルの工事が始まる予定です。 拡大画像 奥が環状4号線の未開通部。今後トンネルが建設される(乗りものニュース編集部撮影)。 場所は豊島区目白と、文京区目白台。いずれも、神田川北岸の河岸段丘、いわゆる「目白崖線」を貫き、崖の下と上の地域を結びます。 ただ、近いといっても路線は全く別モノです。 建設中のトンネル「環状5号線」 豊島区目白のトンネルは、「環状5号線(環5の1)」の未開通部です。明治通りのバイパスになります。都電荒川線「学習院下」電停付近、明治通りの坂に坑
いまではお馴染み「元町・中華街行き」だが... 渋谷駅を出発した東横線は、目黒川を渡って中目黒、学芸大学や都立大学を経て、自由が丘は大井町線と交差するターミナル。 田園調布駅では目黒線、多摩川駅では東急多摩川線と接続し、多摩川を渡ると武蔵小杉のタワマン群が見えてくる。日吉はいわずと知れた慶應義塾大学の門前駅だ。 かつては温泉があった綱島駅を過ぎると鶴見川を渡り、東海道新幹線と交差すると横浜線と接続する菊名駅。以後、横浜市郊外の住宅地の中を走って横浜駅に向かう。 ここからは地下を走ってみなとみらい地区へ。馬車道や日本大通りといった、幕末以来の港町・横浜の中心だったエリアを東に走り、終点の元町・中華街駅へ。北にはマリンタワーに山下公園、西側には駅名の通りの横浜中華街が広がる終点のターミナルである。 終点「元町・中華街」にある横浜中華街は観光客でにぎわう ©時事通信 正しくは横浜〜元町・中華街間
鉄道のレール幅は「軌間」と呼ばれています。日本の鉄道路線では、JR在来線や西武線、南海電車などで見られる1067ミリと、新幹線や京急線、京阪電車などで見られる1435ミリの2つが主流です。しかし、JR・大手私鉄の中でただ1社、京王電鉄だけは、1372ミリという珍しい軌間を採用しています。 【地図で見る】実は珍しい「レール幅」を採用した首都圏の路線とは? 1372ミリ軌間は、「馬車軌」とも呼ばれます。路面電車の前身で、馬がレールに載った客車を牽く「馬車鉄道」で用いられたのがその由来。また、スコットランドで採用された路線が多かったことから、「スコッチゲージ」という別名もあります。 京王が1372ミリ軌間を採用した理由は、所説あるよう。ただし、1978年に京王が出版した「京王帝都電鉄30年史」によれば、東京市電(現在の都電)との直通運転のため、同じレール幅に揃えたのだそうです。なお、「京王線は路
「渋谷はもう若者の街じゃない」――。このところ、そんな声がやけに頻繁に聞こえてくる。実際、渋谷の街を歩いていても、若者の姿は、あまり目につかない。 筆者は、東京の様々な街のイメージを探るために、さまざまな人々にインタビューを重ねているのだが、今回は、そこから見えてきた渋谷という、(かつての?)「若者の街」の姿を解き明かしたい。果たして、渋谷は本当に「オワコン」なのか。 前編『渋谷はもう「若者の街」じゃない…イケてた街が「楽しくなくなった」納得の理由』で見たように、渋谷は現在進行中の大規模な再開発によって、「若者のトレンドを発信する街」から、「便利な街」へと変貌している。 また、「ゆっくり時間を過ごす」場所がなくなり、街にいるだけで消費を促され、居心地が悪い思いをさせられる。 「ジベタリアン」から渋谷を見ると…… 前編に登場した、地方から上京したという10代女子大生が、この話に関連して「渋谷
「渋谷はもう若者の街じゃない」――。このところ、そんな声がやけに頻繁に聞こえてくる。実際、渋谷の街を歩いていても、若者の姿は、あまり目につかない。 筆者は、東京の様々な街のイメージを探るために、さまざまな人々にインタビューを重ねているのだが、今回は、そこから見えてきた渋谷という、(かつての?)「若者の街」の姿を解き明かしたい。果たして、渋谷は本当に「オワコン」なのか。 「渋谷は、単なる便利な街」 結論を先に述べれば、「若者の街」という看板は、もはや渋谷には似合わないのかもしれない。アンケートを重ねる中で浮上したのは、「渋谷」は、今や単なる「便利な街」程度にしか認識されていないという事実だ。「是が非でも行きたい」「あの場所に行ってみたい」といった特別な思い入れを抱かせる魅力は、すっかり色あせてしまったようである。 このような事態に拍車をかけているのが、現在進行中の渋谷の大規模な再開発だ。数年
1. 熊野街道 (マップ作成年度 平成17年度) 2. 暗越奈良街道 (マップ作成年度 平成19年度) 3. 竹内街道 (マップ作成年度 平成17年度) 4. 東高野街道 (マップ作成年度 平成18年度) 5. 高野街道、西高野街道 (マップ作成年度 平成18年度) 6. 京街道、西国街道 (マップ作成年度 平成17年度) 街道マップのご利用方法 このマップは街道の歴史や見どころを知り、街道散歩をより楽しんでいただくため、作成したものです。街道沿いにある史跡や名所の情報や分岐点など分かりにくいポイントには詳細図もついていますので、ぜひマップを片手に歩いてみてください。(マップは過去に作成したもので現在在庫はございません。ご家庭のプリンターで印刷してお使いください) ※各ルートで紹介している歩行距離や標準歩行時間、標準所要時間および電鉄情報は目安です。 掲載されている情報は更新されている場合
律令国家が建設した直線官道、いわば古代版ハイウエーが全国各地で発掘されています。畿内には東西・南北方向の直線道が多く、東山道、東海道、山陽道など七道諸国の道は地形に沿って、折れ線上に連なる道の遺構が見つかっています。「道」を切り口に日本の歴史を読み解く『道と日本史』(金田章裕著/日経プレミアシリーズ)より、さわりを紹介します。 7世紀の記録にある「大道」 『日本書紀』推古天皇21年(613)11月条に「難波より京に至るまで大道を置く」と記されている。推古天皇の時期、大規模な道路建設を実施したとの推定にかかわる最初の記事である。 難波よりの「大道」が具体的にどこなのかはこの表現からは不明であるが、この時点の宮とは大和(当時は「大倭」)の小墾田(おはりだ)宮であったから、難波から大和へ至る道と考えられる。 具体的には、孝徳・斉明天皇(645~661)時の難波宮(なにわのみや)跡から真っすぐ南へ
1:横浜元町ショッピングストリート、2:霞橋、3:キリン園公園(ビヤザケ通り)、4:横浜インターナショナルスクール、5:イオン本牧店および周辺(旧マイカル本牧)、6:浜マーケット、7:禅馬歩道橋、8:磯子アベニュー、9:ブリリアシティ横浜磯子(横浜プリンスホテル跡地)、10:汐見台団地A公園(通称「ぶた公園」)、11:汐見台小学校、12:汐見台中央商店街。オレンジ色の線は徒歩、青色の線はバスの移動を示す(出所:国土地理院の地図データに日経クロステックがデータを加筆) 2024年を昭和で勘定すると「昭和99年」。来年は昭和100年の区切りを迎える。今日では日常生活から政治・経済の最前線に至るまで、社会の各所で昭和的な価値観や仕組みの限界が露見する半面、ここ数年はデジタルネーティブの環境で生まれ育った10代半ばから20代後半の若者層、いわゆるZ世代を中心に「昭和レトロブーム」が広がっているとい
鉄道がどんなものなのかわからない時代ゆえに激しい反対運動が起き、結果的に駅の場所がずれてしまったのである。 品川といえば、江戸時代には東海道五十三次の第一の宿場として栄えた町。鉄道の計画を聞いて、住民たちは宿場がすたれ、失業者が続出するといった恐怖を抱いた。今なら鉄道が走って駅ができれば町の活性化につながると歓迎されるところだが、当時は未知の交通手段であり、どんなことになるのか想像もつかなかったらしい。 大隈重信が出した「奇抜なアイデア」 強硬な反発により用地が確保できない状況に陥ったとき、奇抜なアイデアを出したのが、計画を推進していた大隈重信だった。海に目を向け、埋め立て地に線路を通せばよいと考えた。こうして昼夜を問わず干潮時をみはからって埋め立て工事が行なわれ、品川宿からは離れた埋め立て地に駅が誕生したのである。すぐ南は波打ち際だったという。 その後、1902(明治35)年になって最初
今日は神田川沿いを一寸外れて「神田上水跡」を歩くことにしました。 江戸では住民の飲料水や産業用水や防火用水などを確保するために多くの上水が造られてきましたが、「井の頭池」、「善福寺池」及び「妙正寺池」を水源とする神田川の水を利用した「神田上水」は、わが国で最も古い上水だそうです。 「神田上水」の建設の経緯について、文京区教育委員会は、「江戸時代の初期、徳川家康の命を受けた大久保藤五郎忠行が、神田川の「大滝橋」あたりに堰を設け、川の水位を上げて上水として流し、余った水は神田川(江戸川)に流した」と述べていますが、東京都水道歴史館のパンフレットは、「1590年に、後に「神田用水」となる「小石川上水」が開設された」と述べ、歴史的経緯についてやや異なった見解が紹介されています。 今日の「神田上水跡」巡りは、「大滝橋」をスタートし、小日向台地の裾野を通る「巻石通り」を東に進み、「小石川後楽園」を散策
東京都心部の地形は、西側の「武蔵野台地」と東側の「東京低地」に分かれている。1590年に徳川家康が江戸へ入府した頃、海に近い低地では、井戸を掘っても塩水しか得られなかった。大勢の家臣団とその家族が暮らすには、圧倒的に飲み水が足りない。そこで、家康が真っ先に手掛けたのが、上水道の見立てだった。今回の散歩は、2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」ではほとんど触れられなかった江戸のまちづくりについて、改めて注目してみた。まずは、最初の水道である「小石川上水」が発展したといわれる「神田上水」の遺構をたどってみよう。 1:神田上水取水口大洗堰跡 2:神田上水旧白堀跡 3:巻石通り(神田上水跡) 4:小石川後楽園(神田上水跡) 5:文京ふるさと歴史館(神田上水の石) 6:文京区立本郷給水所公苑(神田上水白堀再現) 7:東京都水道歴史館 8:神田上水掛樋跡 9:江戸城牛込見附跡 10:市ヶ谷門跡
「若者の街」として東京・渋谷のイメージをつくってきたのが、宇田川町・神南エリアだ。次々に新しい流行が生まれる中でも、その変遷の早さに負けず、街と一体化したかのような建築が息づいている。前編では渋谷センター街(以下、センター街)近辺のそんな建築を巡った。今回は、同じエリアの渋谷公園通りを散策する。繁華街としてにぎわっているセンター街とは違い、商業ビルの「渋谷PARCO」や音楽イベントが多く開催される「渋谷公会堂」などがあり、文化の発信地としての印象が強い。「渋谷らしさ」のもう1つの側面を確かめに行こう。 宇田川町・神南エリアの後編では、渋谷公園通りの坂をJR渋谷駅寄りの方から上って、神南近辺まで歩く。 渋谷公園通りは、神南1丁目交差点付近から渋谷区役所前交差点付近までの約450mの坂道を指す。渋谷区のウェブサイトによれば、1972年に渋谷PARCOが開店したのを機に当時の渋谷区役所通商店街が
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く