一生懸命文章を書いた、それでも読者に的確に伝わらない、ということは決して珍しい事ではありません。 いくら「ブログの文章は、こう書けばいい、ああ書けばいい」と試行錯誤を繰り返し、理想的な文章を書いたところで、読み手との感性の違いが大きかったり、読解力が低ければ、自分の意図通りには伝わらないものです。 要するに、いくら多くの人にとっての「分かりやすい文章」を書けたとしても、受け取り方の違いは免れないのだから、あまり神経質になることも無いんじゃないかなぁ、というのが、ここのところの「文章術」に関する、僕としての結論。 後はせいぜい「自分の理想の文章に近づける方法は、こういうやり方です」と言う物を、各自出し合って、参考にし、他人のやり方の良いと思う部分を取り入れるくらいだと思います。 誤読から始まるコミュニケーションもあります 自分の書いた物に対して寄せられたコメント・トラックバックに、時として「
「彼」のことには直接触れない。受験の結果が出るまで発言を控えろと言った以上、こちらもある程度は発言を控えるのが礼儀であると思うのだ。 少し昔の話をしよう。 2003年ごろ、「2chに超反対!2chは最低!まゆのホムペ 」というホームページがあった。 ログが残っていないので正確ではないが、自称14歳の少女「まゆ」が「友達のサイトが2ちゃんねらーに荒らされた」「2ちゃんねらーは全員犯罪者」と書き連ねたのである。このサイトに2ちゃんねらーが乱入し、併設されていた掲示板はマジレスと煽りとAA爆撃で大混乱に陥った。 いや、実は僕はその祭りに加わっていたのである。 そのとき、2ちゃんねる陣営によって特設のチャット会場が設けられた。興味半分で顔を出してみたところ、「2ちゃんねらーは全員犯罪者」という表現を2ちゃんねらーに対する名誉毀損で告発できないかという主張*1が飛び出していた。 それが伝わったのか伝
帰省、寿司、陶芸体験 8/13(火) 妻の実家の墓参りへ行き、俺の実家へ帰省。風呂に入る前に子供達と外で水鉄砲で水を掛け合いびしょ濡れになる。最後のほうはどうにでもなれと思い、ホースやバケツで直接水をかけ合う。久しぶりの大胆な遊び方に子供たちは大声をあげながら騒いでいるが、田…
仕事を始める前や、緊張したりする対面の前に、ひとつ「ここで毎度ばかばかしい小咄を」だとか「この間覚えた最高のポーランド人ジョークがあるんだけど」といって15秒ほど時間をいただいて何か喋って場が和む、というのは一つの知恵だなと思えるようになってきた。 会社休んで自分だけ北海道に行きやがって馬鹿野郎、と思っている仕事仲間に、甘いものを買って帰ってちょっとでも雰囲気を和らげよう、という配慮と同じようなものだと思う。 漫画をたくさん読んでいたりすると面白い発想がたくさん浮かぶのだろうが、そういう知識のストックがない。僕の友達で面白いことを言って話をずらす人は、よおく唐沢なをきの漫画を引用しているみたいなので、アメリカンジョークの他にもそういう漫画も効率がいいのかも知れないと思った。
大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる(?B) これは、そういう話じゃないだろう、と思う。 妻 「赤ワインだと、私はメルロー(Merlot)が好きなんです。苦味が少なくて。」 自称ワイン通 「メルローはブレンドワインですよ。」 妻 「え、メルローって、ブドウの種類だとばかり思っていました。」 自称ワイン通 「違います。メルローはフランス語では『ブレンドしたワイン』という意味なんですよ。」 この会話がどうも腑に落ちなかった私としては、そのパーティの後、近所のワイン専門店に行って真偽のほどを確かめずにはいられなかった。すると、やはりメルローはブドウの種類で、実際にフランス産のメルローワインも何本も置いてある。店の人によると、フランスではメルローは他のブドウから作ったワインとブレンドされることが多いらしいが、「メルローはブドウの種類」という私達の理解は正しいらしい(参照)。 その次の回のホ
BI@K::2ちゃん軍板の方々へ(2005-11-08) 私が思い出したのは、BI@K:writings:書評(2003年)に収められた「経済論戦/いまここにある危機の虚像と実像」(野口旭著)の書評でした。bewaad さんは、こう書いていらっしゃる。 野口旭は、リフレ派の中でも活発な活動をしている学者の一人であり、その著作も多い。しかし、本書には、微妙な方向転換が感じられる。といっても内容が、ではない。デフレの害への警鐘に始まり、構造改革論や中国・アメリカなど外国に罪をなすりつける議論を排し、オーソドックスな経済学に立脚しつつ金融緩和を説き続けていることは、野口の以前の著作と同様である。異なるのは、野口の姿勢だ。 例えば、本書と似通った狙い・内容である「経済学を知らないエコノミストたち」においては、経済学の知見を広めることが現在の日本の窮状を救うとの信念が全体を覆っていた。しかし、本書に
めんどくさいから端的に書いちゃうけど、この人の態度、言動はおかしいぞ、というのがあからさまに見て取れるようだったら、対等に話をできない相手だと見なしてそれ相応に扱うのが一番楽でいいんじゃないかと思います。ネットの世界では判断材料が限られていて、しかもその大部分が文字情報だからか、どうにも過剰に「議論」(そして往々にしてそれは言論ゲームに過ぎなかったりする)が大事だとされてしまっているのだけれど、最低限のレベルでそれが成立しない相手というのはいくらでもいるわけであって、そんな人たちを相手に理論立ててどこがどう変かを説明しようと試みるのはたいていの場合ただの徒労に終わります。 こういう態度は「ちゃんと説明できないから逃げている」などと言われることもありますが、この物言いからしてすでに一つの言論ゲームテクニックでしかないので、気にする必要はありません。気になるのなら一応説明して終わらせるのがいい
まず、言い訳から書く。 本来、この文章は一ヶ月前に書かれるべきものだった。 一ヶ月ほど前から、私は——たぶん神さまからだと思うんだけれど——この文章を書くようにうながされていた。 何度も何度もこのテーマを思い出させられ、 文章の順序、構成を考えさせられてきた。 文章をエディタで入力する前から、私は文章の全貌がどうなるかわかっていた。 でも、さまざまな都合により、入力する時間がとれず、 ついつい先延ばしになってきたのだ。 きっと誰か——私の知らない誰か——に向けてこの文章は書かれているのだと思う。 この文章は皮肉について書かれていて、 例によって、もっともらしくて優等生風の文章です。 けれども私は、この文章を特定の人に向けて書いているわけではない。 この文章を読んで「結城さんは私にあてこすりをしているのだ」と思わないでください。 私はこの文章をただ書いている。 というか、書かされているのであ
歴史を書かない女性たちについて終わらない夏というモテ・非モテを語った記事と関連があるのでは? との指摘がありましたが……私には理解できませんでした。 モテ・非モテの話題はオタク方面で人気ありますけど、自分自身の問題としては切実感ないです。私はある時点でアドレス帳を捨ててしまったのだけれども、それは何故かといったら、人間関係を維持することが煩わしくなったからでした。よーく考えてみたところ、「私にとって、人とのつながりの価値は、維持コストに見合わない」という結論に達したのです。(参考?) だいたい虫唾が走るくらい電話が嫌いなのに、電話番号を交換するなんて馬鹿げています。メールなんて面倒くさすぎて書く気がしないのに、アドレスを教えてもらっても意味がない。全然興味ないのに服屋へ行くのもアホらしい(ただ着るだけの服ならスーパーの通路沿いのカゴから拾えばいい/安いしね)。土日は出かけたくないのに外出の
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