ノーベル生理学・医学賞受賞が決まった京都大学の本庶佑特別教授らは、従来のがん治療の常識を一変させた。体を守る免疫を強めてがんを倒すのではなく、がんが身を守る仕組みを突き止め、これを逆手に取って治療につなげる戦略を実現した。手術や抗がん剤、放射線治療に続く第4のがん治療法の普及に道を開いた。(1面参照)1日の会見で本庶氏は免疫を抑えていたたんぱく質「PD-1」の発見について、「(当初は)がんに関
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日本人で3人目となるノーベル医学生理学賞の受賞が決まった大村智さん(80)が長く仕事をしてきた北里研究所と北里大学は、世界的な細菌学者・北里柴三郎(1853~1931)に由来する。北里は「日本の細菌学の父」と呼ばれ、第1回ノーベル医学生理学賞の候補だったが、受賞を逃した。大村さんの今回の受賞で、1世紀越しの悲願が果たされた。 「北里柴三郎博士が第1回の候補。そのときは残念ながら無念の涙をのみましたが、1世紀をこえて大村博士がその栄誉あるノーベル賞を受賞されますことは、非常に感慨深い」。5日夜、受賞決定を受けた大村さんの記者会見の冒頭で、北里研究所の藤井清孝理事長は、まず創始者の名前を挙げた。大村さんも「尊敬する科学者の一人。北里先生の『実学の精神』を若い人に伝えたい」と述べた。 北里は熊本県生まれ。ドイツへ留学し、ロベルト・コッホのもとで破傷風菌の純粋培養に成功した。また、破傷風菌の毒素を
スウェーデン・ストックホルムで行われた2014年のノーベル賞授賞式(2014年12月10日撮影)。(c)AFP/JONATHAN NACKSTRAND 【10月5日 AFP】ノーベル賞(Nobel Prize)といえば、人類にとって有益で革新的な研究に対して贈られる賞だと思うものだが、化学兵器や強力な殺虫剤のDDT、ロボトミー(前頭葉切断術)など、まったく非人間的な発明にも贈られてきた。 ノーベル賞をめぐる論争は長年の間に数多くある。賞からもれた作家の異議や自分の発明の方が早かったと主張する科学者、世論が分かれる平和賞などは一例だ。中でも、科学賞を受賞した研究の一部には、後から見れば選考委員会の恥辱と思えるようなものもある。 ■「化学兵器の父」 2013年には、化学兵器禁止機関(Organisation for the Prohibition of Chemical Weapons、OPC
「毎年2億人以上を感染症から救う」といわれる日本人は、医師ではない。有機化学者大村智が静岡県の土中の微生物から開発したわずか3ミリの錠剤は、感染症予防に絶大な効力を発揮。医師でも難しい偉業を成し遂げた。経歴は異色で、東京の定時制教員からスタートしながら、「ノーベル賞候補」に名前があがった。2015年、ノーベル医学・生理学賞を受賞。「人のまねをするな」。人生を貫く深い信念がある。 アフリカの奥地に届く「奇跡の薬」 アフリカの田舎の、さらに奥地。医師のいない集落にも、その薬は届いている。「この薬を1回、飲んでください」。集落の代表者が住民一人一人に薬を配り、失明を引きおこすオンコセルカ感染症を防ぐ。病気を防ぐだけでなく、現地の人がより働けるようになり、食糧増産など経済効果も大きいという。 「薬を飲ませる」作業は、簡単ではない。現地は言語が多様で、薬の適切な服用量を測るうえで必要な体重計すらない
京都大学の山中伸弥教授は幹細胞の研究に没頭していた。だが従来の胚性幹細胞(ES細胞)は受精卵を壊して作らねばならず、倫理的な問題に触れるのは避けたい。そこで彼が開発したのが、06年に米科学誌セルで発表したiPS細胞(人工多能性幹細胞)。iPS細胞は皮膚などの体細胞から作製でき、受精卵を破壊することなく作れる万能細胞だ。 この発見で山中は先週、ノーベル医学生理学賞を受賞した。だが授賞を発表したノーベル賞委員会も、その後の報道も山中の功績の半分しか語っていない。山中の挑戦は実験室だけにとどまってはいなかった。それは倫理観への挑戦でもある。 07年のニューヨーク・タイムズ紙の記事によれば、山中が自身が探るべき研究の道を決めたのは、友人の不妊治療クリニックで受精卵を顕微鏡で見たときだった。「その受精卵と私の娘たちに、どれだけ大きな違いがあるのかという思いが芽生えた」と、山中は振り返る。「もう研究の
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