ブックマーク / ish.chu.jp (7)

  • 米大統領候補マイク・グラベルさんがオトコマエすぎる

    非常に話題になっているのでご覧になった方も多いと思いますが、異色のド根性大統領候補:マイク・グラベルという記事が素晴らしいです。 民主党大統領候補の中では「泡沫」と言えるマイク・グラベルさん。その発言が余りにも余りにもカッコ良過ぎます。 まあ、まず第一に理解しなきゃならんのは、ジョージ・ブッシュが詐欺的な基準に基づいてイラクに侵攻した時点でこの戦争は敗北していたということですな 主流派の候補者諸君は、イランに関してはあらゆる可能性を検討するなんて言っている。そりゃつまり、核攻撃もありうるということじゃないか。核兵器だ。言っとくが、私が大統領になったら、核兵器による先制攻撃など絶対にやらないぞ。わしが思うに、そりゃ不道徳だよ。もっとも、過去50年間のアメリカ外交はずっと不道徳だったがね。 我が国はさっさと撤退すべきなんだ。何もせず撤退するんだ。彼らの国なんだぞ。彼らは我々に出て行けと言ってる

    takisawa
    takisawa 2007/05/11
  • 『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』 柄谷行人|ish☆手作りスキンケア・サイボーグ

    『世界共和国へ―資=ネーション=国家を超えて』 柄谷行人 発売直後に購入して一読していたのですが、いざ何か書こうとするとまとまらない。部分部分はわかりやすいのに、全体として何を言っているかをまとめようとすると難しい。 柄谷行人さんのによくあることで、これも一重に氏の語りの上手さによるものでしょう。学生の頃むさぼるように読んで、ここのところこの世界とはご無沙汰だったのですが、久しぶりに読んでみても同じ印象。とにかく面白いし、わかったような気になるのでサクサク進んでしまうのですが、うっかりしていると右から左に抜けてしまいます。 重要なであることは間違いないので、もう一度読み直して以下に無理矢理まとめておきます。誤読もあると思いますがご容赦を。 三つの交換様式を考える マルクスの言う「生産様式」とは、生産が一定の交換や分配の形態でなされることを示す。ゆえに「交換様式」という方が、交換を二次

    takisawa
    takisawa 2007/04/20
    柄谷行人。なるほど。
  • 虚空に向かって書くからこそ丁寧に書く

    「なぜコメントの敷居を高くするのか」で手前味噌な感じに触れた「くるさりんど」さんのエントリについて、ふと思い出して今頃書きます。 件のエントリに「交流らしい交流もなく、虚空に向かって書いているようなのに『ですます』調」ということが指摘されていていました。わたしが比較的丁寧な文体で書くいくつかの理由については前にも書いたのですが、突然、そんなアレコレの理由以前に、そもそも「虚空に向かって書く」からこそ形を整えようとしている、ということに気付きました。余りにも当たり前になっていて、意識することもできていなかったようです。 一般的には「顔の見える対象」を相手にしたとき、人は丁寧になるものなのでしょうか。場合によりけりでしょうし、容易に断じることはできません。ただ少なくともわたし自身について言えば、むしろ「顔の見える対象」ではない場合に、より真剣に向き合っているように思います。 逆に言えば「顔の見

    takisawa
    takisawa 2007/03/25
    ウェブログは誰に向かって書くのか。私は原則一人の女性に向けて書いている意識が強いなぁ
  • 交流、直流、コミュニケーション

    「なぜコメントの敷居を高くするのか」について、某所で「書き言葉の敷居とコミュニケーションの敷居が一緒くたになっている」というツッコミをみかけました。こっそりツッコんだものをネタにしてしまって申し訳ないですが、この指摘にはちょっとハッとするものがありました。 確かにごっちゃになっています。 書き言葉の問題はそれとしてあるのですが、これをクリアしてなお、コミュニケーションの敷居というのがあるように思います。 それを書き言葉の敷居に還元するような書き方をしてしまったことには、いくつか理由があるでしょう。 一つは、わたし自身がこの還元を意図せず行っていたこと、つまりこの問題をコミュニケーションの問題として取り上げることに対する心的防衛、という要素です。この背景にはおそらくわたしの深い心の闇が横たわっているのでしょうが、そんな痛い話を公開してしまってはせっかくの無意識的防衛が無駄になってしまうので、

    takisawa
    takisawa 2007/03/07
    「コストとリスク」に対して得られるリターン。まぁ、そこの価値基準は合理主義だけで判断されるわけでもないのだけれど
  • webのフラットさによる暴力はweb自体によって去勢されるという微かな希望

    昨日のエントリの続きです。 前回の内容をものすごい端折ってまとめてみると、 1 テクストは常に「誰か」が書いたもの(「誰か」を想定することなしに、わたしたちは意味を意味として受け取ることができない) 2 そのテクストを「誰が」書いたかは質的ではないが、「誰か」がテクストの有意味性を保障する唯一の砦であるため、「誰か」はすぐさま「誰が」を呼び出してしまう。 といったところでしょうか。 あるいは次のように言うこともできるでしょう。 「誰か」は「誰が」に対し論理的に先行するが、わたしたちは「誰が」抜きで「誰か」を認識することができない。 こういう「厳密には間違っている具象」と「正確だがわかりにくい抽象」が制しあっているような風景というのは色々なところに見られて、わたしはよく三角形のことを考えます。 わたしたちは三角形を見たことがあるでしょうか? 中一くらいまでの子供にそう尋ねると、大抵はき

    takisawa
    takisawa 2007/03/06
    これは深い。ishさんの意図と思われるものをできるだけ正しく読み込もうとするだけで一週間かかった。生まれて初めて自分の頭の性能の限界を見てしまった。
  • ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる

    最近吹風日記さんの「最近の若者は当にいたか、とカントは言った、皆がを書いている」というエントリでベタ褒めな紹介のされ方をしてしまって、ちょっとキンチョーしています。この吹風日記さん、根が暗いのでリファラを辿って発見したのですが、ウチのようなヘンなブログを評価してくださるだけあって、極私的にかなりヒットでした。 件のエントリは、引用の適切さ・信憑性といった論点を切り口にして展開していくものですが、まず「最近の若者は・・」というネタからしてヤラれました。ツカミが上手いですよね(笑)。 このテクスト後半に以下のような下りがあります。 理想を言えば、「アシモフが言ったから正しい」とか「朝日新聞が言ったから正しい」とか「アルファブロガーが言ったから正しい」とか「アー」とか、そういう判断のしかたをやめて、1つ1つの主張を検証するべきなんでしょう。要するに「だれが書いたか」で判断するのではなく「何を

    takisawa
    takisawa 2007/03/06
    話はいきなりずれるけど、言葉(文字)とは呪われたものであるという支那古典の話を思い出した。言葉など発する「誰か」が「いる」から、他の「誰か」は心を揺さぶられる。
  • なぜコメントの敷居を高くするのか : ish☆走れ雑学女ブログ

    「くるさりんど」さんのエントリでやたら持ち上げられてしまい、クレンジングジェルのこととかばっかり書いてちゃダメだなぁ、ということで、前々から考えていたことをまとめています。 件のエントリでも指摘されている、ブログのコメントについてです。 しかし掛け値なしに面白いにもかからわず、コメント欄には反応が少ない。というのも、コメントするのに、なんかの登録とサインインが必要だからです。 自分を褒めてくれている記述を引用すると実にバカっぽいのですが、言いたいのはコメントについてです。 このブログのコメント機能はTypeKeyの登録が必要で、コメント一つにちょっと手間がかかります。トラックバックも開いていません。 これらは単にスパム対策が面倒だから、というのもありますが、意図的に「敷居を高く」している部分があります。 別段気取っているわけではなく、web上でのやり取りをまったくしたくない、というのでもあ

    takisawa
    takisawa 2007/03/05
    登録やサインインと比較にならないぐらいに、コメントや交流のハードルが高くなっている気がするんですが…… 「あなたは話しても退屈」と言われたら、一週間ぐらい寝込むわ / エクリチュールとパロール デリダ
  • 1