2021年10月に刊行された『嚙みあわない会話と、ある過去について』(講談社文庫)は、作家・辻村深月による短編集だ。「嚙みあわない会話」――すなわち、相手が思いもよらぬことを唐突に語りだし(少なくともこちら側にとってはそう感じられて)、コミュニケーションの文脈を共有できない状況。振り返ってみると、思い当たる場面は多々ある。 例えば、私の場合。過去に勤めていた会社を辞め、別の会社に転職を決めたときのことだ。自分の意思は、きちんとした手順を踏んで勤務先に伝え、承諾されたはずだった。だが、面談中に上司が突然「でもそんな業界、落ち目だよね」と言い出した。今さら引き留めるわけでもない。最後に何か言ってやりたいとでもいうような、明らかに棘のある口調。「そんな業界」というのは出版業界のことで、確かにそういう見方もできる。ただ勤め先は、転職後も仕事で一緒になる可能性が高い業種だった。シンプルな悪口を、なぜ