帝京高校で高校野球大会に通算3回[2]出場。3年時の1987年は、春夏の甲子園に共にエースとして出場。春の59回大会は、前年の秋の成績が芳しくなかったこともあってそれほど注目されていなかったが、2回戦で優勝候補の一角で、近畿大会王者の京都西を完封。準々決勝で野村弘、橋本清、立浪和義、片岡篤史らを擁するPL学園高校に延長11回、2-3でサヨナラ負け、2試合連続で好投したことで、一躍注目を浴びることとなった。夏の第69回選手権大会では2回戦・対東北高校戦でノーヒットノーランを達成(選手権大会史上20人目)するなど、3試合連続完封して準決勝に進出したが春夏連覇したPL学園に打ち込まれ、5-12で再び敗れた[1]。高校の2学年上に河田雄祐と小林昭則、1学年上に奈良原浩がいた。 同年秋のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズに6位指名され入団[1]。同期入団の島田直也とともにSSコンビと呼ばれた