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ブックマーク / crow-henmi.hatenadiary.org (12)

  • 自己の限定性との対峙――あるいは「罪」と「赦し」について - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    序文 このエントリーは、主にTRPGというジャンルにおける意思決定と倫理について先にupしたコヴェントリー・ジレンマから考えるTRPGの遊戯としての可能性の続編であり、AGSの「傷だらけの偉大な負け組に捧ぐ:「役割演技式競技」における「ヒーロー」とは何者であろうか?」及び、「戦略の迷走:『空の境界』と『キラーエンジェルズ』の場合」への補論として書かれたものである。 このエントリーにおいては、主にTRPGにおけるプレイヤーの意思決定について語っているが、その方向性は人間一般の意思決定に関わる倫理にもある程度敷衍しうることを織り込んでいる。TRPGというジャンルについてご存じない方も、ある種の意思決定に対しての倫理性を語ったエントリとして読んでいただければ幸甚である。 文 意思決定の時間性、あるいは限定性の回避について まずは、人間の意思決定というものがどのような時間性に縛られているかについ

    自己の限定性との対峙――あるいは「罪」と「赦し」について - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    tatsuzawa
    tatsuzawa 2010/12/12
    上条さんは最終的には相手を赦しているが、その前にこれまでの罪を強制的に確定させているからなあ。
  • 「不気味なもの」との対峙と克服――サバイブ系共同体主義的想像力における覚書 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    初出不明。 いわゆる「サバイブ系」すなわちある個人または共同体がその外部の敵対性と対峙し、それを克服せんとしていく想像力が生み出す物語の形態について、少し思うところがあったのでメモしてみた。 サバイブ系コミュニティの存在強度/存在意義は「共通の敵」によって導きだされる。しかし、それが存在しなくなってしまえば、コミュニティの存在価値は必然的に低下する。そこにおいて、コミュニティ維持の自己目的性が「新たな敵」を作り出しはしないか、という懸念が発生する。また、そのようにはならず、存在意義の小さいコミュニティが惰性的に存続する、あるいは目的を達して解散するという形もありうるが、そこにおいて重要なのは、コミュニティと自己との距離をどのように設定し、コミュニティによって補填されない実存価値をどのように代替するかということになる。 つまりこれはいわゆるモバイル的実存と関わってくるのだが、主人公に取って真

    「不気味なもの」との対峙と克服――サバイブ系共同体主義的想像力における覚書 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    tatsuzawa
    tatsuzawa 2010/11/25
  • みんな大好きな戦争――世界内戦における現代ファンタジー的想像力についての備忘録 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    初出2010年6月ごろ。 カール・シュミット「パルチザンの理論」で、現代ファンタジーのうち、特に絆と世界内戦的状況に重点をおいたものを語ってみるためのメモ。われながらこじつけが過ぎると思うが、誰かの思考の肥やしにでもなれば幸いです。 文 現代ファンタジーあるいは現代伝奇などと云われる想像力というのは、まずその核心に「中心対周縁」の対立構造をもって現れた。それは大きな物語とそれに包摂されないものという対立関係であり、周縁から中心へと、日常を異化する「不気味なもの」の侵攻という構図をとった。だが、後期近代における社会の脱呪術化がもたらした「平坦な日常」――すなわち極限まで周縁的なるものが排除された世界観は、その「中心対周縁」という構図を無効化した。 しかしながら「平坦な日常」は、その必然として「中心」が存在したがゆえの求心力を失い、分断され、衰退しつつある。そこにおいて世界の連続性は失われ、

    みんな大好きな戦争――世界内戦における現代ファンタジー的想像力についての備忘録 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    tatsuzawa
    tatsuzawa 2010/11/23
  • 「萌えと美少女とお約束」についてのメモ - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    2010年4月30日更新。 mixiボイスのほうで長文を書いたので、流れてしまわないうちにメモしておく。 mixiでやりとりした「尖ったヲタがお約束とセックスの重力に引かれて小さくまとまる」問題というのは結構重要だと思っているのだが、俺自身が小さくまとまったなかでごちゃごちゃやっているヲタなので耳が痛い。ヲタは量的には浸透と拡散をしたが、質的にはかつての過剰さを失い、むしろ平凡なものになりすぎたように、ぼくには思える。ではなぜそのようになったのか、少し偽史的記述を試みてみる。 80年代に勃興し、しかし一度は徒花として散るかに見えた「美少女」というイデオロギーが90年代前半にセラムンで復権したことが、ことの始まりである。それ自体は悪いことではない。しかし「美少女」というイデオロギーは強すぎ、ヲタのあらゆるイデオロギーと結合して「美少女にハァハァする人≒ ヲタ」という状況と概念を生み出してしま

    「萌えと美少女とお約束」についてのメモ - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 中二病という桎梏――現代伝奇はこの先生きのこることができるか―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    2010年1月22日更新。 「中二病と云う言葉が使われる度に、世界から大切なものがひとつ消えていく」 ――元長柾木―― 中二病とか云って現代伝奇のテンプレ要素が否定されて行く時代に、ぼくたちはどうやって現代伝奇を書けばいいのか問題。 中二病同士が己の尊厳をかけて邪気眼バトルする話が現代伝奇の来の姿であり、いまでも売れ線の作品に多く見受けられるが、その想像力はすでにネタ化され、アイロニカルに語られるものになりつつある。ここでも使っている「中二病」あるいは「邪気眼」といった概念によってネタ化された現代伝奇の想像力は、ある種の行き詰まりを見せていると云えるのではないか。 しかしなぜこのようなアイロニカルな変容を、現代伝奇の想像力は経てきたのだろうか。そこには「時代的感受性のアイロニカルな変遷」というものが関係しているように思われる。具体的にはどういうことか。 まあこれはいつもの後期近代論とポス

    中二病という桎梏――現代伝奇はこの先生きのこることができるか―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • BLUE ON BLUE(XPD SIDE) - 現代学園異能について(メモ)

    薬漬けでだるすぎる一日。 こりもせず今度は現代学園異能のオルタナティブを考えてみようか、と思ったのだけど、この手の考察に必要なのはまず基をきちんと押さえることなんで、現状では書いてもバトルマンガの時の二の舞だなあ、とか思った。ちうか勇み足にもほどがあるだろうそれ。 全然関係ないけど。 僕が愛読してる某作家氏のblogを読んでたら、その中に畏友某氏の名前が出てきてたのでびっくり。仕事関係で絡みがあったらしい。なんとうらやましい。しかし、縁というのはこのくらいニアミスすることは十分あるのだなあ、と思った。ハリウッドの俳優の関連性をたぐっていったら誰から始めても3人目までにケヴィン・ベーコンにたどり着くとか、そういうアレ。でもまあ、ともだちのともだちって、他人だけどね。大抵は。 注文していたがいろいろと届く。カリカリモフモフと読書。 読んだ 妖怪ハンター 水の巻 (集英社文庫(コミック版)

    BLUE ON BLUE(XPD SIDE) - 現代学園異能について(メモ)
  • BLUE ON BLUE(XPD SIDE) -現代学園異能の分類項(試行・メモ) 20060409

    ここのところアニメとは徹頭徹尾ごぶさたしていた僕ですが、久しぶりに「桜蘭高校ホスト部」なるアニメを見て(多分これからも見続けるんだけど)、ファンタジーと現実の混交したひとつの独立したアトモスフィアとしての「学園」をふつうに生きていくタイプの話も学園異能(現代学園異能)の周縁部として語られるべきものである(少なくとも視野に入れておくべきものではある)なあ、とか思いました。いや学園もの全て、ジュブナイル全て、さらには――とどんどん周縁は拡大していくのだけど。あー。作品自体は大変面白いものでした。絵はキュートで面白く動くしストーリーや演出もステキだし。もっと虚心坦懐に見れないものかなあ。自分。 後、現代学園異能の分類項をちらほら見かけたけど、もうちょっと概論的にやったほうがいいんじゃないかなあ、とか思ったりした。この特性があるかないか、で区分けしていくと、時に分類の埒外にあるものに突き当たったと

    BLUE ON BLUE(XPD SIDE) -現代学園異能の分類項(試行・メモ) 20060409
  • 供犠としての碇シンジ、あるいはポストゼロ年代の想像力に向けて - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    炎暑の日々をやりすごすうち、ふと気づくと涼風を肌に感じる季節になった。夏ももうすぐ終わりだなあ。 ここのところ、blogでまとまったエントリを書く気力がなかったので完全放置していたのだけど、Twitterなどでそれなりに書き留めた断片的なメモはあるので、それらを編集してお蔵出しなどしてみる。 ついったからの転載、改稿。 「恋空」は古典的な通過儀礼譚、しかもその純化された形として読むことができる。「日常>他者である移行対象との出会い>非日常かつ象徴的生>移行対象の死>日常への帰還と自己変容」という型がそこには見出される。しかし、なぜそのような通過儀礼譚が多くケータイ世代に受け入れられたのかが疑問としてある。 以前、現代における通過儀礼は共同体や社会システムの構造変化により困難になったと書いた。それに代わり「共同体が付与する意味にしたがって通過儀礼をなして成長するのではなく、自らを再帰的に成長

    供犠としての碇シンジ、あるいはポストゼロ年代の想像力に向けて - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
  • 2007-11-16 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE) - アメリカの不安――孤独な体制内反逆者たち

    気が付けば10日もblog放置プレイ。主に余暇は積読を崩していた。そのおかげで、すこし書くこともできたので、まとめて書いておく。 それはそうとして。「ナイトウィザード」の柊連司が、現代学園異能的に面白いキャラだと思う昨今。一般的に現代学園異能というのは「ごく平凡な日常にいる少年が「異界」との接近遭遇によって非日常の世界へと参入するはめになる」パターンが多いのだけど、彼の場合、はなから彼岸の人間である。まあ、それ自体は良くある話だ。「スケバン刑事」における学生刑事みたいなもんだと思えばいい。 にもかかわらず、柊連司は「学校に行きたがる」し「普通の学園生活」をしたがる。非日常の人間であるにも関わらず、徹底して日常に固執し、そして非日常の人間ゆえにそれが果たされることはない。「世界は俺を学校に行かせない気か!」という彼の魂の叫びは、まさに真実であるがゆえに、乾いた笑いを呼び起こす。「彼岸に足を踏

    2007-11-16 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE) - アメリカの不安――孤独な体制内反逆者たち
  • 樹木が示す情緒的な死と再生――「kanon」におけるコスモロジーと少女主義―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    先日「なぜ泣きゲーではしばしば樹木が奇跡の象徴として登場するのか:Key『Rewrite』を見すえて」という問いが投げかけられていたので、少しレスなどしてみる。 樹木は、エリアーデにおいては世界の中心、フレイザーにおいては生命ならびに生と死の時間的サイクルを表すものであるとされる。ゆえにそれは、ある閉じたアトモスフィアの中において生と死のサイクルを描き出す「泣きゲー」というジャンルにおいて、最重要の神話的表象――物語の基点や収斂点として機能しうる。と、大雑把に云えばそうなる。*1 では、具体的にはどのように機能するのか、Key「kanon」を題材として解説したい。これはほんの一例であり、実際にはさまざまなあり方が考えられるが、「樹」と「奇跡」が緊密に絡み合っている作品であるので、これに関して考察する際に何らかの知見は得られると思う。 「kanon」における丘の上の樹は、当ゲームのメインヒロ

    樹木が示す情緒的な死と再生――「kanon」におけるコスモロジーと少女主義―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    とらドラにオラクル不在問題(俺命名)について少し書くことにする。 この問題は「週末に「とらドラ!」の原作読んだけどよ」という増田のエントリの中で取り上げられ、それに対し有村悠氏が「『とらドラ!』について少し考えてみた」というエントリーにおいて、大体の要点を抑えたアンサーをしているのだが、これについてもう少し深く掘り下げたり我田引水してみたい。具体的には、オラクルが「物語中で」「登場人物によって」希求されているにも関わらず「不在であること」の意味――「『みんなが物事を自分ひとりで解決していかねばならない』という困難の存在」の理由と意味を、もう少し深く考えてみようと思う。 この問題に対して、増田は共同体の崩壊に、有村氏はより限定的に家族共同体の崩壊にその理由を見出したのだが、これは「再帰的近代化」における「ゲマインシャフトのゲゼルシャフト化」によるものだといえる。社会システムの発展と高度経済成

    「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • うろ覚えCLANNAD論――後期近代における「イエ=家族」の形成の困難―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    Twitterからの転載・改稿。 CLANNADは、主人公とヒロインが、出会いから恋愛、そして学生生活におけるゲゼルシャフト的関係を通じて、「イエ」という史的・空間的連続性を持つ共同体に包摂され、家族として成り立つという話として読みうるし、またそう読まれがちである。 しかし、CLANNADにおいて「イエ」そのものへの帰属が重要であっても決定的でないことは、/ヒロインの実家である古河ファミリーに、主人公である岡崎朋也が参入しない/参入を拒否することから見て取れる。より重要――そしておそらくはメインのテーマであるのは「主人公自らのイエ」への帰属と、その家長としての自意識の形成である、と見るべきだろう。 主人公が古河ファミリーに帰属しないのは、彼自身に「古河のイエ」の一員ではなく「自らのイエ」の家長であるという自覚が無意識的にあるからだといえよう。そのくせ育児放棄とかはしてしまうのだから、主人

    うろ覚えCLANNAD論――後期近代における「イエ=家族」の形成の困難―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
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