やまや・たけし/1976年東京都生まれ。システムエンジニアを経て2002年よりライターとして活動。中国をはじめとするアジア諸国のIT事情を専門とし、幅広いメディアで執筆活動を行っている。執筆の他、講演や調査なども行う。著書に『中国のインターネット史 ワールドワイドウェブからの独立』(星海社新書)など。 News&Analysis 刻々と動く、国内外の経済動向・業界情報・政治や時事など、注目のテーマを徹底取材し、独自に分析。内外のネットワークを駆使し、「今」を伝えるニュース&解説コーナー。 バックナンバー一覧 筆者が拠点とする中国雲南省の昆明、その様子は過去記事「雲南省・昆明――とある中国内陸の地方都市、この10年の変化」をご一読いただきたいが、掲載時の2011年末には『「中国住宅バブル崩壊」とは日本のニュースなどでは聞くものの、この内陸の都市にはその波はまだやってきていないため、市民は「買
この間、ソーシャルゲームと賭博の保護法益の関係などを眺めていて、少し思ったことがある。 極論すぎるかなと思って当初のアジェンダには書かず、話が盛り上がってきたら煙幕的に投入しようと思っていたのだけど、どうやらディベートとして盛り上がっていく雰囲気もなさそうなので、何か変な間になってしまうけど、つらつらっと書いておく。まあ、なんでも好きなことを好きなときに書いていいのがブログのいいところであるな。と自分に言い聞かせつつ。 さて、賭博はなぜ罪なのか。みなさんはご存じだろうか。 それは、「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済に影響を及ぼす」からだそうだ。 私はソーシャルゲームは賭博ではないと思うけれど、とはいえ賭博じゃなければなんでもやっていいのかというとそんなはずもない。もし賭博でない何かが、まるで賭博のように国民の射幸心を煽り、結果として国民経済に悪影響を及ぼしていたら、それは賭博
この画像は、地中海に浮かぶイタリアの島、ランペドゥーザ島で撮られた写真だそうです。何回見直しても、船が浮いているようにしか見えません。ものすごい透明度です。 参照元はこちら。 Mare trasparente - Immagine & Foto di Domenico Formichella di Mare - Fotografia (10761652) | fotocommunity http://www.fotocommunity.it/pc/pc/display/10761652 検索したら、ランペドゥーザ島の海の透明度が分かる写真をいくつか発見したので、合わせて掲載します。(以下、各画像をクリックすると参照元の記事が開きます。) ©Lucio Sassi こんな海で一度泳いで見たいです。その他の画像は以下のフォトセットよりどうぞ。 Lampedusa , Linosa - Sici
写真術は19世紀前半に発明されて以来、その技術は驚くべきスピードで発達しました。「見たまま」を写し取る写真の登場は、当時の画家たちに多大な影響を与えるとともに、普段私達が目にする機会が少ない彼らの姿や制作の様子を記録としてとらえました。 今回ご紹介するフランス近代を代表する芸術家たち40名の肖像写真100点は、フランス在住のコレクターが所蔵するもので日本では初公開となります。これらの中にはナダールやエティエンヌ・カルジャといった黎明期の写真家たちのセルフポートレイトをはじめ、戸外で制作するミレーやモネの姿などが含まれ当時の画家の制作状況を知る上でも大変貴重な写真です。 19世紀のヨーロッパは政治や文化の主導権が市民層へと移り、芸術家たちは既存の価値から新しい時代の美を創り出そうと様々な試みを行いました。それまでアトリエの中だけで制作されていた絵画が戸外で直接写生が行われるなど、画家の制作ス
名画や女優に自ら扮するセルフポートレート作品で世界的に有名な美術家、森村泰昌。本展では、森村泰昌が2010年から発表している「なにものかへのレクイエム」シリーズを中心に、作品制作の舞台裏を撮影した、福永一夫の写真作品を展示、販売します。皆様のご来場を心よりお待ちしております。
「社会」というのは、そこで生きている人にとって、あるしかたで行動せざるをえないようにしているものなんだよ。そうしないと大変な目にあってしまう。例えば、労働者の敵になるのは嫌だと思ってストライキ破りの職につかないでいると、ほかに仕事がないから飢え死にしてしまう。あるいは、泥棒や強盗になって生きていかないといけない。(中略)私たちが社会を作って生きているってことは、その中ではあるしかたで行動せざるを得ない状態ができあがっているってことなんだよ。(p.77) 「分かる」ということには、説明できるという意味と、理解できるという意味の、二つの意味が含まれているんだよ。そして、「なぜ」「どうして」という問いをぼく達が問うときには、どちらの意味で「分かりたい」のかが、暗黙のうちに前提とされているんですね。(pp.140-141) そもそも、実態を観察するといっても、「理論」がなければ何を観察したらいいの
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