タグ

ブックマーク / mint-seijotcp.blog.so-net.ne.jp (9)

  • 出会い系メディアのこれから:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

    2009年2月1日、老舗出会い系サイト「スタービーチ(通称スタビ)」が閉鎖した。「スタービーチ」はiモード黎明期から活躍したサイトで、月間1億PVを越えるケータイ向け出会い系サイトの代名詞となっており、一時期は業者が大量に出没することで「出会えなくなった」と嘆かれていたが、それでも利用者は多く、2007年頃には「月間4.5億PV」をトップページに掲げていた。それが今年、「出会い系サイト規制法」(正式名称は「インターネット異性紹介事業を利用して児童を誘引する行為の規制等に関する法律」)の改正により、利用者の年齢推奨が必須となり、事業者登録および運営動向などを公安委員会に報告する必要が生じたことを受け、9年間の歴史に幕を閉じた。さすがにちょっとさびしい。 長らくご愛顧いただきましたFriends!掲示板は、2009年01月31日を持ちまして、終了致しました。 インターネット異性紹介事業に関する

  • いくつかのネット社会論に疑問をはさんどく:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

    情報技術の発達等により、「規律訓練型」の(権力を求める)社会から、「環境管理型」の(権力を求める)社会になった。そうした「新しい社会」では、「アーキテクチャ」、すなわち社会的に埋め込まれた様々な「コード」の「設計」如何によって、人々を特定の仕方へとコントロールする匿名的な権力が肥大化しうる一方、「人間らしさ」の概念が変容しつつある。そこでは人々が「人間らしく」振舞わなくても、相応に社会が駆動することが期待されるようになり、実際人々は「思考」をシステムに委ね、ますますエコーチェンバーに閉じこもるようになっている――。 「情報思想」について議論する場に参加すると、こうした「物語」を前提化して語りかけてくる人にしばしば遭遇する。だが最近になって、こうした理解は非常にクリアなものである反面、多くの現実を捨象してしまうという思いを強くしている。初期段階の仮説としては有効だったかもしれないが、少なくと

  • ゲームを欲望するための「物語」:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

    プレイステーション3専用ゲーム『リトルビッグプラネット(以下、LBP)』は、不思議な世界観とグラフィックを持つ横スクロールアクションゲームゲーム内にあらかじめ用意されている複数のステージを攻略できる他、オンライン上で各ユーザーが自作のステージを公開することも可能。古典的名作『ロードランナー』がそうであったように、あらゆるゲームはパズル的であることを痛感させる作品だ。 と、今ハマっているゲームを紹介してみたが、そんな『LBP』には、次のような「ものがたり」がつけられている。 惑星「地球」 また名を「夢見る人々の惑星」 この惑星に住む種族は これでもかってくらい 寝たり夢見たり そんな彼らの夢から クリエイティブなエネルギーに満ちた どでかいイマジネーションが吐き出され 一体どこに行くのでしょう…… 宇宙のずっとずっとずーーっと先まで飛んでいって 色んな夢と混ざり合って そして素敵なことが起

  • バーチャルと郷愁(クロノトリガーDS購入記念:笑):荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

    あらゆるメディアは、時間を経るとノスタルジーの対象となる。それは、ゲームやアニメといった、ここしばらく「ニューメディア」とされてきたものも例外ではない。現に僕たちは既に、ドット絵に、セル画に、フィルム撮影の映画に、ノスタルジーを感じているようだ。 ノスタルジーは、ある環境に対する、極めて記号的な反応だ。懐かしい手紙に涙し、古いを大事にするように、僕らはデータベース上の記号の配列であっても、その感情を揺さぶられる。それはとても豊かな感情だ。その感情を作り出す環境を自明視し、それを共有しない者に対して押し付けることさえ自制しさえすれば。 ニンテンドーDSより発売された『クロノトリガー』のテレビCMは、露骨にノスタルジーを喚起するものになっていた。スーパーファミコンから飛び出した、懐かいキャラ達がDSという新舞台へたどり着く姿が、DSを手にしたプレイヤーの感動を重ねられる。キャラ同士の再会を喜

    tokada
    tokada 2008/12/02
  • ウェブコミュニティは、「ネット内部」で自己完結しない:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

    現在ではネットを通じて、さまざまなコミュニティが形成されている。それは「ウェブ上に設置されているコミュニティサイト」に限定されるわけではない。メールのやりとり、ゲーム、画像の交換など、部分的な利用を通じ、様々なコミュニティ内の関係構築へと関与していく仕方も含まれている。 ネット・コミュニケーションの興隆は、社会の変化と、人々の欲望とに、密接に関わっているものだ。核家族化が進んだ社会において、育児のためのナレッジは、旧来の地域や親族ネットワークによる伝承とは違った形で、雑誌や書籍など、メディアを通じて共有する方法が定着していった。それが今では、ネット経由で情報を取得するだけでなく、「ママ友」同士での情報交換や、ガス抜きなどの機能など、様々な「社会的機能」を獲得しつつある。(それが、よりスムーズな繋がりも生む一方で、ネガティブな現象も生む、的なことは、もはや言うまでもないよね!) もちろん、「

  • 「疎外」と「包摂」の情報思想:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

    ウェブ上のコミュニティや、インターネット技術を用いたコミュニケーション管理、あるいはウェブ・コンテンツ周辺に作られる共同体などの誕生は、多くの人に自由と、利益と、浪費と、困難を同時にもたらしている。情報技術は、これまでの社会にあった問題解決に向けて提供されたものであるが、同時に同量の問題群を新たに生んでいる。両者の関係はトレードオフでありながら、不可逆だ。だから「情報技術を必要とする社会」を抽象化して捉え、長期的な議論に耐えられる言説の下地を作るために、これまでも多くの「思想」(「サイバーリベラリズム」「サイバーリバタリアン」といったような形も含め)が語られてきた。 日においても、さまざまな仕方で「情報社会」を捉える「思想」が語られている。ただし、若干気になることは、その言説が「どこから」繰り出されているかという点だ。たとえば最近頻出するキーワードに「設計」というものがある。最適なアー

    tokada
    tokada 2008/10/13
    プログラマーとしてはアーキテクチャについての語り(たとえ欺瞞だとしても)はありがたいんだけどね
  • 「メディアに騙されない」ってどこまで可能なんだろうか?:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

    僕達はしばしば、「メディアに騙されない」ことを、なんだか大層いいものであるかのように語りがちだ。と同時に、「メディアに騙されている」人に対し、嘲笑的に振舞ったりもする。しかし、「メディアに騙されない」ことって――それが可能<ではない>ということは大前提としても――そもそも「可能だと思われている」のだろうか。あるいはこう言いかえてみよう。「メディアに騙されない」ことを主張した嘲笑が行われる際には、バッシング側の人は、当に「メディアに騙されている」<から>その対象を批判しているのだろうか、と。 TBSのバラエティ番組「ドリームプレス社」では、女性芸人たちが様々なタイプのダイエットに挑戦している。べ合わせダイエット、レコーディングダイエット、コアリズムなど、さまざまなダイエット方法を提示し、自分にあったものを選べと呼びかける。どれがベストだとは決して言わない。ただ芸人を実験台にし、そのプロ

  • 「稚拙なケータイ小説」だけが描ける「リアル」――『あたし彼女』の場合:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

    第3回日ケータイ小説大賞に『あたし彼女』が選ばれ、ウェブ上で大きな話題となっている。その反応を見るとその多くは、これまで「スイーツ(笑)」「恋空(笑)」とバカにしていてほとんど読まなかった層が、「賞金200万円獲得」というニュースに釣られて読んでみたら、あまりに独特な文体だったので、深く付き合うよりも嗤いの対象にして処理(合理化)しようとしている、という集合行動がまた反復されていたように思うのだけれど(参照)、しかし「『あたし彼女』を書籍化してみた」「あたしニート」といったエントリーが書かれたり、「あたしブログ」といったサイトが作られるなど、関連ネタも大きく話題になっていることからも、話題づくりとしては大成功の模様。 では、結局作品としてはどうなのかと思い、早速読んでみた。僕個人としては率直に、いくつかの点では『恋空』よりも優れている作品であり、ここしばらく読んだケータイ小説の中でも(一

    tokada
    tokada 2008/09/30
    濱野より先に書くぞーと気合入れたのですね、分かります
  • 「ゲーム的快楽」の循環回路について:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

    そろばんや電卓、コンピュータを使うことによって、人はより簡便で、高度な計算能力を手に入れてきた。文字を獲得し、情報として記録するために紙や電子媒体を獲得していくことで、自らの身体的限界を超えて、膨大な情報を蓄積し、共有することを可能にした。現在の私たちは、様々なメディアを使いこなすことによって、もはや「稗田阿礼」のように長文を丸暗記する必要なく、いつでも膨大な情報を、メディアを経由して引き出すことが出来る。 メディアを獲得することは、新しく身体能力を外部化し、拡張することでもある。脳にプラグをさして、記憶容量を増やすことこそまだ直接的な形では出来ないが、それに類した行動は既に行われている。自分の記憶容量が足りなければ、自分が覚えきれないと判断すれば、メモをし、レコーダーやカメラをまわし、パソコンやケータイなどに保存すればいいのだ。 そのような振る舞いが一般化するにつれ、社会はそのような「拡

  • 1