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ブックマーク / crow-henmi.hatenadiary.org (5)

  • ポストモダン社会におけるレスポンスビリティと決断の倫理 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    「ポストモダニズム系リベラルの世界も大変だ - 過ぎ去ろうとしない過去」を読んで思ったことなど。 おそらく、レスポンスビリティは「趣味」の問題としても発生しうる。あるものが声を上げたとき、それに対してどう振舞うかを決めるのは趣味であろうとなかろうと究極的には自分だ。そこには決断という自己決定がある。その意味で、決断とは倫理の問題ではないだろうか。 決断を行うこと、それを再帰的に展開していくこと、あるいはそれを途中からコミュニケーションの様相に応じて変化させていくこと、そしてその結果を引き受けていくこと――それはやはり「趣味の問題であろうとなかろうと」ひとつの倫理なのだ。それゆえに、けして「趣味の問題」などというカジュアルな言葉で切り捨てるわけにはいかない、独自の深刻さと戸惑いというのがポストモダン・リベラルにはある。 その深刻さと戸惑いとは、とりもなおさず自己が無根拠の中から何かを選択しな

    ポストモダン社会におけるレスポンスビリティと決断の倫理 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    とらドラにオラクル不在問題(俺命名)について少し書くことにする。 この問題は「週末に「とらドラ!」の原作読んだけどよ」という増田のエントリの中で取り上げられ、それに対し有村悠氏が「『とらドラ!』について少し考えてみた」というエントリーにおいて、大体の要点を抑えたアンサーをしているのだが、これについてもう少し深く掘り下げたり我田引水してみたい。具体的には、オラクルが「物語中で」「登場人物によって」希求されているにも関わらず「不在であること」の意味――「『みんなが物事を自分ひとりで解決していかねばならない』という困難の存在」の理由と意味を、もう少し深く考えてみようと思う。 この問題に対して、増田は共同体の崩壊に、有村氏はより限定的に家族共同体の崩壊にその理由を見出したのだが、これは「再帰的近代化」における「ゲマインシャフトのゲゼルシャフト化」によるものだといえる。社会システムの発展と高度経済成

    「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 決断主義と動物化を超克するには――宇野常寛的レジームについての注釈―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    ついったからの転載・改稿。 宇野常寛が書いていたかどうかは覚えてないが、いわゆる「決断主義」の前提には「例外状態」があるのがシュミット的に正しい立場だったような気がする。では、宇野的文脈における「例外状態」とは何か。それは社会の分子化や「大きな物語の衰退」ではなく、それが現象として生み出した「万人の万人に対する不寛容」である。 社会が分子化されていても、他者との間に無関心や寛容があるならば、例外状態というほどの危機には陥らない。他者が「敵」あるいは「潜在的敵」としてあることが「決断主義」を要請する「例外状態」の質である。中間集団が解体し、スーパーフラット化した/しつつある社会から自己を差異化する欲望に基づいた再帰的自己決定は、永続的な他者との摩擦を引き起こし、リスクを高める。一方で、中間集団が担っていた保護と再分配のシステムが崩壊してしまった状況下では、ホッブス原典的な意味合いでの「万人

    決断主義と動物化を超克するには――宇野常寛的レジームについての注釈―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 伊藤計劃「ハーモニー」――「わたし」と「世界」を巡る物語―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション) 作者: 伊藤計劃出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2008/12メディア: 単行購入: 50人 クリック: 931回この商品を含むブログ (329件) を見る先日読了したので、Twitterでメモしたことなどを下敷きに、少しばかり論じてみたい。 伊藤計劃の小説は常に一人称で書かれているのだが、この「わたし」への固執――すなわち実存への固執という問題意識が、彼の書く物語のテーマやギミックと密接に絡まりあっていること――具体的には「わたし」という存在と、それを生み出した近代的スキームの解体を追求するために、あえて使われているということを指摘したい。 そもそも近代において、「わたし」という存在は世界との対立に生ずる存在であるがゆえに、「わたし」にとって世界は来的に異物であり、耐え難い。しかし「世界」は「わたし」に対して圧倒的であり、ゆ

    伊藤計劃「ハーモニー」――「わたし」と「世界」を巡る物語―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 2008-07-27

    少しばかり環境を変更。 プロバイダのDNS脆弱性がかなりアレげだったのでOpenDNSに変更してみた。 今のところ、とりたてて不都合はない。 はてなアンテナが満杯になっていたので、批評系サイトをまとめてサブアカウントのアンテナに移した。 これについてはRSSに移行することも考えている。 ヲタク・サブカル圏における、作品と自己、あるいは作品と状況論を絡めて語る、いわゆる「なんちゃってカルスタ」という批評の方法論は、ヲタが「自分とは何者であるのか、自分はどのような状況と立場にいるのか、そしてどこに行くのか」という問いとして存在する。それは状況の把握と立ち位置の確定により、世界を把握し、それとの関係性を模索する試みである。もちろん、そのような方法論は不完全かつ歪であるのだが、しかしそれでもなお、一定の意味を持っている。 過去においてそれは文学の役割だったのだが、文学がそのような役割を果たしえたの

    2008-07-27
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