インチキ書道の続き。 しかし、今日は真面目にやろうと思う。 テーマは、「現代」である。 まずは一作目。 まあ、得てしてそんなものである。 さがしものは何ですか。見つけにくいものですか。それより、ぼくと踊りま――あれ、逃げてっちゃったよ。 煮詰まったとき、思うにまかせぬとき、考えることが同じところをぐるぐる回ってしまうときには、両手を広げて、胸いっぱいに空気を吸ってみるのもいい。 さあ、息を吸って〜。 人間のいかんともしがたい部分を表現してみました。 次の作品は、人間讃歌というと大げさだが、悩める人への応援歌。 辛いときには、無理しなくったっていいんだよ。 広告のコピーでもよく使われる手法だが、いろいろな意味にとれるフレーズというのは、あいまいな分、広がりを持つ。 読んだ人の頭が「こういうことかな、ああいうことかな」といろいろに働くからだろう。その「いろいろ」が余韻につながる。 そういう、ど
ミクシィで他人の日記やプロフィールにアクセスして「足あと」を残したまま、日記にコメントをしない「踏み逃げ」が話題になる中、選挙候補者による「踏み逃げ」が波紋を呼んでいる。足あとを不特定多数のユーザーに残し、自分のページに誘導する狙いのようだが、「踏み逃げ」された側からはブーイングが起こっている。 ことの発端は、ミクシィ内の所沢市の「コミュニティー(コミュ)」に、2007年4月17日に立てられたスレッド。「某議員の足跡」というタイトルで、スレッドを立てた人は、こう呼びかけている。 51%が「法律に触れてなくても、いい気分ではない」 「22日の市議会議員選挙に向けて、駅前演説や選挙カーを見かけますね。 ところで某議員がしょっちゅう足跡をつけてるんですけど、これって公職選挙法に違反しないんでしょうか? 名前を売るための行為である事は明確で、気持ち良くありません」 不特定多数に足跡をつけることで、
糸井さんの「今日のダーリン」が更新されていました。昨日の「カレー部例会」がどのように語られるのだろう、と興味津々で待っていたのです。 で、今回は、イベントは少人数でしかできないけれど、 「伝える」ということも遊びに組み込めば、 少人数のイベントを、大勢で楽しめるんじゃないか、と。 そんなふうに考えてみたのです。 そこで今回はテレビや新聞の取材はなしにして、ブロガーなどの小さいメディアが参加するとどうなるか、という実験をしてみたのだそうです。 「小さいサイズのイベントを、 小さいメディアが、 ちょこちょこと伝えあったら、どうなるんだろう」 120人規模のイベントはけっこう大きい気がしていたのですがそれはさておき、何が驚いたって「タモリさんからの提案がきっかけでした」というところですよ。 これで謎が解けたよ、じっちゃん。 昨日、ブロガーが集う4Fでタモさんは、何か料理ができる度に「ブロガーのみ
「前頭前野の損傷は、功利主義的な倫理判断を助長する」 Damage to the prefrontal cortex increases utilitarian moral judgements (nature 446, 19 April, 2007) 一月ほど前にオンラインで出版され、 他のブログでも少し話題になっていた論文。 前頭前野prefrontal cortexに損傷のある患者は、 功利主義的な倫理判断をしてしまうようです。 功利主義的な判断とは、たとえば: 「電車が、レール上の5人の人に向かって暴走しています。 他の1人を電車の前に突き飛ばして電車を止めれば5人を救えます。 さて、あなたはこの1人を突き飛ばしますか?」 という問題に対して、Yesと答えること。 前頭前野に損傷があると、このように 「少数を犠牲にして多数を救おう!」と思ってしまう、らしいです。 調べた患者が6人だ
つと思い立って、書をやってみることにした。 といっても、パソコンで書くインチキ書道である。 まずこういうのを書いてみた。 スタイルの元ネタは相田みつをである。 ・相田みつを美術館 といっても、わたしは相田みつををよく知らない。 むしろ、和食の創作料理の店(わざわざ創作せんでも、と思うのだが)なんかで見かけるヘゴヘゴした書、略して「ヘゴ書」全般がモデル、と言ったほうがいいかもしれない。 ヘゴ書の特徴のひとつは、独り言だか感慨だか語りかけているんだか、よくわからない言葉遣いをすることだ。 この種のあいまいな“やさしさ”を用いて、純真な人達のふところにスッと入り込む、というのが手なのではないか。 ま、しかし、いつも“やさしさ”(書いてて痒くなってきた)ばかりでは飽きられる。たまには強いことを言うのもいい。 この作品では、微妙な怖さを表現してみました。 次の書のように、大したことを言ってないのに感
湯浅規子の「焼き芋とドーナツ」という本をちらちら読んでいたら、これが、高井としをの『わたしの「女工哀史」』と、サンドラ・シャールの『『女工哀史』を再考する』という二冊の本をめぐって書かれた本であることが分かったので、この二冊を図書館で借りてきた。 高井としをは、『女工哀史』を上梓してすぐ死んでしまった細井和喜蔵の内縁の妻で、その後労働運動に挺身し、戦後になって自伝的回想を出したうち、まとまっているのが『わたしの「女工哀史」』で、1980年に刊行され、2015年に岩波文庫に入った。 これを半分くらい読んだ。高井というのは旧姓ではなく、旧姓は堀で、高井は細井が死んだあと再婚した高井信太郎の姓で、高井も戦争中に病死している。 とにかくやたら気が強い女なのには驚かされるのだが、どうも読んでいて一抹の違和感がある。細井が死んだあと、新聞に「細井和喜蔵未亡人ご乱行」という記事が出て、売れていた『女工哀
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く