志布志の名は鎌倉時代から見られる地名で、1315年(正和5年)の沙弥蓮正打渡状[6]を初見とする。志布志の名の由来は、古くにこの地を訪れた天智天皇が滞在中に主人の妻と侍女がともに布を献上したことを「上からも下からも志として布を献じたことは誠に志布志である」とし、志布志と呼んだと伝えられている[7]。 江戸時代には薩摩藩直轄領となり、志布志郷(外城)のうちであった。1702年(元禄15年)の『日向国覚書書』には「志布志郷14カ村」とある。志布志町志布志は志布志郷14村のうち志布志村にあたる。志布志村は志布志津(志布志港)の貿易によって栄え、後に農村の帖村と港町の野畠村へ分村された[8]。このうち志布志町志布志は野畠村にあたる。 1871年(明治4年)、野畠村は帖村へ併合されるが、1879年(同12年)に再び志布志町として分立した。ただし1884年(同17年)の『日向地誌』(平部嶠南)は帖村の