「月の半分ほどは食べられない」ムスリムの子の給食どうすれば…北九州市の学校現場の苦悩 「限られた予算や人手でも」熊本市では献立表で工夫 2024/3/24 6:00 [有料会員限定記事]
17日午後1時50分ごろ、長崎市大崎町の沖合で「ボートが漂流し、ライフジャケットが浮いている」と、通行人から110番があった。長崎市消防局と長崎海上保安部がヘリコプター2機と巡視船1隻、消防車8台などを出動。約80人態勢で捜索した結果、15日の「精霊流し」で流されたとみられる精霊船7隻や飾りを確認した。 海保は精霊船を漂流するボートと見誤ったと判断。最長2・3メートルの船を回収し、2時間にわたる捜索を終了した。 精霊流しで長崎市は、街中を引いた船を海岸で回収する「流し場」を設けている。ただ、宗教行事であり海に流すことを禁止してはおらず、廃棄物処理法違反などの立件も難しいとみられる。海保は「本来の救助活動がおろそかになる」と協力を求めている。 (坪井映里香)
拡大 ギラヴァンツ北九州が「ぶちくらせ」応援問題について開いた説明会で、一般サポーターからの質問に耳を傾ける横手敏夫社長(右) サッカーJ2のギラヴァンツ北九州が「ぶちくらせ」という言葉を使ったサポーターの応援を禁止し、違反した14人の入場を禁じた問題について、クラブ側は6日、小倉北区のAIMビルで説明会を開いた。サポーターなど44人が参加したが、問題を起こした14人の出席は認めなかった。 横手敏夫社長らが「ぶちくらせ」の応援禁止に至る経緯を説明。クラブ側は2014年以降、「ぶちくらせ」という言葉を使った応援コールをしたり、横断幕を競技場に掲げたりするのをやめるようにサポーター側に複数回にわたって求めたが理解を得られず、入場禁止としたという。 質疑応答では、参加者から「誰が今回の問題の責任をとるのか」といった質問もあり、横手社長は「いろんな意味で混乱を起こした。経営者として、けじめはつけな
「あなたが2003年に党首になってから、全国の社会党、社民党の党員の皆さん、先輩方が築いた遺産を全て食いつぶした」 照屋氏は衆院選だけで沖縄2区から6回の当選を重ねてきた党の長老。かねて福島氏の党運営には批判的だったが、この日、福島氏があいさつで次の衆院選に勝利したいと訴えたのには、怒りを抑えかねた。 というのも参院議員の福島氏はこれまで4回、すべての選挙を比例代表によって当選してきた。照屋氏にすれば、党首たるもの、自力で選挙区を勝ち上がってこその思いがある。 社民党の国会議員はこの党大会の時点で4人。75歳の照屋氏は、既に次の衆院選には立候補しない考えを表明しており、他の議員も立憲民主党へ合流する意向で、残るは福島氏1人となる。衆院選で勝つ展望などまるで見えてはいない。 社民党の前身は、戦後労働運動の高まりの中で育った日本社会党。冷戦を背景に、自民党と対抗する革新勢力の中軸を担ってきた。
拡大 学校司書の配置増を求める国会決議に反対し「司書の仕事はAI(人工知能)にとって代わられる」(中央)などとした日本維新の会の文書 学校図書館で子どもの読書や学習を支える学校司書の配置増を求める国会決議案に、与野党で唯一、日本維新の会が「近い将来、司書の仕事は人工知能(AI)で代替可能になる」と反対し、臨時国会(9日閉会)への提出が見送られていたことが19日分かった。 2015年施行の改正学校図書館法で「努力義務」とされた学校司書の配置は全体の半数程度にとどまっている。このため「文字・活字文化推進機構」が働き掛け、衆参両院で全会派が了承した形での決議案提出を目指していた。 維新の浅田均政調会長は取材に「人件費増に直結する『司書の配置促進』は『改革』の名に値しない」と文書で回答した。
同じ神奈川県選出で信頼する麻生派の河野太郎行政改革担当相を要職に起用できないか―。だが、麻生氏は声を荒らげた。「おまえと一緒に、河野の将来まで沈めるわけにいかねえだろ」 首相は説得を試みたが、麻生氏は最後まで首を縦に振らなかった。 もう1人、首相の後ろ盾である安倍晋三前首相にも党人事への協力を求めたが“三くだり半”を突き付けられた。首相が「孤立」した瞬間だった。 一夜明けた3日午前11時半、自民党本部8階。居並ぶ党幹部を前にした首相は静かに目を閉じた。事務方が用意した「党役員人事は6日に行う」という書類には目を落とさず、こう言葉を絞り出した。 「1年間、コロナ対策に全力を尽くしてきた。総裁選を戦うには相当のエネルギーを要する。総裁選は不出馬とし、コロナ対策を全うしたい」
「社長が暴力団関係者との食事会に参加していたと、警察から問題視されている」―。4月、地場大手の設備工事会社(大分市)が福岡市などの支店を結んで急きょ開いたテレビ会議。社員の男性は、会社側の説明に耳を疑った。 福岡県警は、同社を含む8社の代表者らが指定暴力団幹部と「密接交際」していたと公表。これに対し社長は、社員向けの配布文書で「相手が暴力団関係者とは知らなかったが、警察の取り調べに知っていたと答えてしまった」と釈明した。 一部の業者から取引が停止されるようになり、社員に動揺が広がった。テレビ会議から約2週間後の日曜の朝、社員が再び集められた。「会社は倒産します」と幹部。社員らは「社長は何と言っているのか」と詰め寄ったが、幹部は「詳しくは答えられない」と言うだけだった。 やりがいを感じてきた仕事を突然失った。長年勤めたが、暴力団の影を感じたことすらなかった。男性は「暴力団の問題が身に降りかか
大分県佐伯市で少年時代を過ごし、長寿番組「お笑いマンガ道場」でレギュラー解答者を務めた漫画家富永一朗さん(95)の作品を集めた「まんが展」が、別府市美術館(同市野口原)で開かれている。同館が所蔵する作品46点のほか、別府の観光地を描いた観光漫画など貴重な作品を展示している。30日まで(月曜休館)。 富永さんは京都市生まれ。3歳で父を亡くし、5歳で父の郷里の佐伯市に移り住んだ。佐伯中(佐伯鶴城高)を卒業後、台湾の台南師範学校に進学。終戦に伴って帰国後は佐伯市の小学校で図画や理科を教えた。1951年に上京し、漫画家として活動を始めた。 代表作は「チンコロ姐ちゃん」。76年に始まった「お笑いマンガ道場」では漫画家鈴木義司さんとの掛け合いが好評で、番組は18年続いた。漫画が芸術として認められるよう尽力し、92年に紫綬褒章、98年に勲四等旭日小綬章を受章した。 富永さんは84年10月の市美術館の開館
空洞化しかけた佐賀市中心部に文化拠点を残したかった。「実際に本を手に取ってもらって選んでほしい。市の中心部から文化の灯を消したくない」。児童書専門店「子どもの本屋ピピン」代表の岩永光子さん(67)は同市呉服元町で店を続ける理由をこう話す。 ピピンの旗揚げは2003年3月。同市高木瀬にあった児童書専門店の閉店を機に、常連の主婦5人が蔵書を譲り受け、住宅街の同市天祐に店を構えた。岩永さんは「読み聞かせイベントもやったけど、地域に開いているとは言い難かった。一見さんより知人や常連が多かった」と振り返る。 05年末、土地所有者の都合で店舗移転することに。市商業振興課に相談すると、呉服元町の空き店舗を紹介された。かつての呉服元町一帯は佐賀随一の商業地。商店が軒を連ね、百貨店「佐賀玉屋」もあったが、00年代に入ると郊外型の大型商業施設の進出などで、シャッターの下りた店舗が増加。にぎわいの象徴だったアー
今からちょうど20年前。2000年11月~12月に西日本新聞朝刊に掲載された小松政夫さんの聞き書き連載「こそーっと聞いちゃり」(30回)を期間限定で公開します。文中の年齢、肩書、名称などの情報はすべて掲載当時のものです。小松さんのご冥福をお祈り致します
拡大 自立支援業者の下で寮生活を始めた直後に長男から送られてきたメッセージを読む母親。「積極的に会話できるようになった」「父さんと母さんに感謝してる」と前向きな言葉が並ぶ=5月、福岡県筑後地区(写真の一部を加工しています) 全国に100万人以上いると推計される引きこもり。同居する親が世間体を気にして相談できず、適切な支援にたどり着けないケースは少なくない。福岡県筑後地区では、両親が6年前から引きこもっていた長男(30)を民間の自立支援業者に預けたが、長男は昨年末に姿を消し、遺体となって発見された。「一体どうすればよかったのか」。両親は自問自答を続けている。 「家に帰りたい」。昨年11月、愛知県内の自立支援業者に預けていた長男から母親(52)に電話があった。長男は1年前から業者の寮で他の引きこもりの人たちと共同生活をしながら、青果市場などで働いて自立を目指していた。再会した際は疲れ切った表情
北九州市の小学校で新型コロナウイルスのクラスター(感染者集団)が発生し、新たに小中学生6人の感染が判明した31日、関係者に衝撃が広がった。感染者が急増する同市では、学校が本格的に再開した5月25日以降に児童、生徒らの感染が相次いで確認され、小中学校など5校が休校に追い込まれている。市幹部は31日の会見で「全国的に児童の感染は見られていなかった。複数の児童が感染した状況を重く受け止める」と苦悩の表情を見せた。 児童、生徒の感染判明は25日以降で計10人。28日に守恒小(小倉南区)と企救(きく)中(同)、29日に思永中(小倉北区)、30日に葛原小(小倉南区)で各1人と連日続き、31日にはクラスターとなった守恒小で4人、企救中と思永中で各1人。小倉北特別支援学校(小倉北区)でも教員3人の感染が判明し、閉鎖が続いている。 体温や体調不良の有無を記した健康チェックシートを提出させるなど学校側は対策を
2019年5月、大阪市で初めて見た隻腕のゴールキーパー(GK)、枯れ気味のよく通る声が耳に残った。20歳以上も年上の選手にも気後れせず、シンプルに指示を出し続ける19歳。若さに似合わぬ「安定感」という言葉がしっくりきた。 腕や脚の切断障害者がプレーする「アンプティサッカー」では、片腕の一部を切断、もしくは先天的に欠損している選手が、残った腕を駆使してGKを務める。片腕でのキャッチングが難しい分、パンチングとの使い分けが重要になる。 上野浩太郎選手(20)=滋賀県甲良町=は、その選択が堅実だった。無理が利く場面では左腕で包み込むようにボールをつかむ。クロスや高めのシュートは拳で確実にはじく。 1対1の場面でも自分の体に当てて防いだり、相手のミスを誘ったりする光景が繰り返された。ペナルティーエリアのギリギリ前に立って相手と駆け引きするなど、ポジション取りの良さも光る。 アンプティサッカーの国内
自宅待機、急変リスク 新型コロナウイルスに感染し、自宅療養をしている人が福岡県内で3割近くに上っている。埼玉県で自宅療養中の男性2人が死亡したことを受け、厚生労働省は無症状や軽症の人の療養場所について、自宅ではなくホテルなどの宿泊施設を基本とする方針を示したが、無症状の人が入所を渋り、自宅療養を選ぶケースも相次いでいる。 「ホテルに入るとしばらく酒も自由に飲めない。自宅の方が過ごしやすい」。福岡市で陽性が確認された無症状の男性は、保健所職員の打診を断った。 ホテルでの宿泊療養の対象は、自宅待機している無症状者のうち医師が入院不要と判断した人に加え、軽症者のうち入院から5~7日経過し体温が37・5度以下などの条件を満たす人。さらに本人の同意と、外出しないといったルールを守れることが前提だ。強制はできず、職員は自宅療養を認めざるを得なかった。 「ホテル療養と聞いて豪華な食事を期待したが、そうで
放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(30) 1982年に放送作家デビューした私は、順調に仕事を増やしました。中でもフジテレビ「ドリフ大爆笑」のコントを手掛けたのが大きかった。70~80年代はザ・ドリフターズの全盛期でしたから。TBS「8時だョ!全員集合」と並ぶドリフの看板番組が「大爆笑」です。コント台本の執筆者の一人として、ほかの芸人たちにも知られるようになっていきました。 83年だったと思います。ある日、自宅の電話が鳴りました。若手芸人コンビのタカアキからです。「エビさん(私のこと)、助けてください」。いつもは快活な彼の声が悲愴(ひそう)感を帯びていました。こんな事情でした。所属する事務所を通さず、友人の結婚式の司会をコンビで受けた。これを知った事務所が激怒し、テレビに出演できなくなってしまった-。干された若手コンビは石橋貴明と木梨憲武。そう、とんねるずです。 謹慎している間に「復活で
放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(31) とんねるずとライブの稽古を始めたのは1983年だったと思います。私が30歳で、彼らは20歳くらい。日の出の勢いだったのに、訳あって所属事務所の社長の怒りを買い、テレビに出られなくなっていました。そこでライブです。 「所属事務所の社長の怒り」とさらりと言いましたが、この社長は怖かった。元日本テレビディレクターで「金曜10時!うわさのチャンネル‼」などを手掛け、業界でも名の通った人物。面白い番組を作る演出家でしたが、「武闘派」としても有名でした。2人を手助けしたことがばれると、私も干される危険がありましたが「義を見てせざるは勇無きなり」です。 とんねるずは、学生や先生が絡むコント「青春シリーズ」を得意としていたので、それを発展させた台本を作りました。「写真部の青春」は貴明がカメラを教える先輩。憲武を後輩に見立てました。 シャッターを押す人さし指を鍛
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