『ゲームの歴史』は廃刊になった。確かに記述に誤りはあったが、普通それだけでは廃刊にならない。廃刊になるというのは異例のことで、筆者が犯罪を犯したり重大なスキャンダルを起こしたりしない限りならない。 では、なぜ廃刊になったのか? それは——
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日本は強い強いと言われながらなかなか世界(ヨーロッパ・南米)の強豪国に勝てなかった。その理由はさんざんいわれ尽くしてきたのだが、やはり「文化の差」が大きかった。 どんな文化かというと「マリーシア」だ。 日本にはマリーシアがなかった。逆に、ヨーロッパ(南米)のサッカーにはそれがある。いや、むしろ「溢れ」ていた。 その差が大きかった。その差は「文化の差」なので、どれほど日本のサッカー技術が向上しようとも、少しも埋まることはなかった。 ところが、その「マリーシア」がここに来て、いきなり、全く意味をなさなくなったのだ。ヨーロッパが(そして南米が)数千年をかけて築き上げてきたその文化が、たった一つのテクノロジーによって全く無効化されてしまったのである。 そのテクノロジーこそ、賢明な読者諸氏ならもうお気づきであろう「VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)」である。ぼくの記憶が確かならば、VARはア
この記事が、少なからず炎上した。炎上したのは、高須賀さんに、重大な「事実誤認」があるからだと思う。 まず、世の中には松本杏奈さんに対してこういう批判がある。 「お前が努力だと思っているものは、努力でもなんでもない」 「単に恵まれた人間の自己賛美に過ぎない」 「自分が恵まれた人間だという事をちゃんとわきまえてからモノを言え」 それに対して、高須賀さんはこんなふうに反論した。 「恵まれていたって、成長は痛い」 「恵まれていても、努力は全然ラクではない」 「己の中に背水の陣を敷く」 各論の詳しい内容は元記事を当たっていただくとして、高須賀さんは一貫して「努力は難しい」と言う。そして、それは「恵まれた環境だからできるわけではない」と言う。 その例として、エチオピアのマラソンランナーの話を取り上げた。エチオピアのマラソンランナーは、才能で走っているように思われがちだが、実は命がけで、それこそ「背水の
アメリカでスタンドアップコメディアンは、「聖域」を守るという役割を担っている。その聖域とは「言論の自由」だ。 アメリカにももちろん、言っていいことと悪いことという価値観はある。特に、社会的責任が重い人の言動には、大きな責任が伴う。従って、彼らの舌禍は大きな炎上へとつながり、少なからず責任を取らされることになるだろう。 しかし、スタンドアップコメディアンはその例外なのである。スタンドアップコメディアンは、アメリカ社会唯一の例外として「何を言ってもいい」という特権が認められている。たとえそれが差別的な言辞であっても、だ。日本人は、そこのところが分かりにくいと思う。 なぜなら、アメリカの社会は日本以上に実は価値観の自由度がない。価値観が固着しがちで、伝統的な常識というものに、日本以上に縛られやすいところがあるのだ。 だから、それを意図的・定期的に解体していく必要がある。そして、その役割を一手に担
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