母里 友信(もり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。黒田氏の家臣。通称は太兵衛(たへえ)、多兵衛(たひょうえ)。幼名は万助。但馬守を称す。 槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。また、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる。 「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため毛利但馬、毛利太兵衛と表記されることも多い。なお、黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、福岡県内(福岡市博物館など)では現在でもこう読まれることもある。 生涯[編集] 母里氏は、出雲国の尼子氏に繋がる[1]。播磨国の国人であり、現在の兵庫県加古郡稲美町母里が本貫とされる。[要出典]同地には宗佐城があったが[要出典]
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