現代日本で指導的な役割を演じてきた二人に関する本(合田正人『吉本隆明と柄谷行人』)を読みかけていたが、少々引っかかるところがあるので特記しておきたい。 両氏の思想史的意義について論じるのは別の機会に譲りたいが、私が引っかかりを感じたのは、意味や言語の理論に関わる部分についてである。ソシュールやフッサールの意味の理論に比べて、フレーゲに始まる「言語論的転回」をどう捉えるにせよ、その基本が共有されないと、非常に瑣末なところで議論が右往左往してしまう。たとえば、デリダとサールの間で何か論争がおこなわれたことがあるが、デリダの標的になったのがフレーゲに始まる言語哲学の本流ではなく、オースティンの語用論的研究のさらに末端に位置するサールであったことはそのひとつである。彼らの論点の細部がどのようであったとしても、フォースの理論にはセンス(Sinn)の理論が先んじなければならないことは、フレーゲの基本構