ブックマーク / blog.szk.cc (8)

  • 2016年の音楽を偏った形で振り返る

    あちこちで言及してきたように、今年はひたすらライブハウス通いを続けた1年だった。ワンマンライブをできるかどうかギリギリというレベルのバンドをたくさん追いかけ、若い女性が中心のお客さんに混じって拳を上げ、イベントライブ後の物販に並ぶメンバーとお話をするなんて、40過ぎてやることかと言われると恥ずかしいけど、いままでもそうだったように、自分がやってみたいと思ったことは、ゼロの気持ちで、そこに来ている人と同じ感覚で参加してみたいので、結果的にライブハウスに行き始めたばかりの高校生みたいなことばかりしてたかもしれない。 とはいえ、そうやって同じ目線で参加してみて、ああこういうことかと分かることもたくさんある。そのすべてを体系的に説明することはできないけど、たとえば今のシーンでソーシャルメディアがどう使われているかとか、関東と関西では微妙にウケている曲の傾向に差があるとか、それらが組み合わさって地方

    2016年の音楽を偏った形で振り返る
  • 「である」人と「する」人

    今も残る「である」ことと「する」ことの問題 丸山眞男の文章の中でもっとも有名なものといえば、おそらく国語の教科書で読んだ「「である」ことと「する」こと」(『日の思想』所収、1961年)になるだろう。あまりに有名なこの文章をいまさら要約するのも気が引けるけど、人を属性で判断する(○○である人だから××)近代化以前の日社会のしくみと、人を業績で判断する(○○する人だから××)近代社会のしくみの相剋を指摘し、両者の間の倒錯を再転倒する必要を論じる、というものだ。 確かにこの倒錯というのは今でも色んな場面で見られる。新入社員と飲み会、なんていうのがその例かもしれない。上司と部下というのは業績によって規定される、いわば「部下する」関係のはずだと考える新入社員は、「部下である」以上は社外の飲み会においても、座り位置からお酒の注ぎ方まで部下としてのあるべき行動が求められると考える上司の飲み会には出て

    tsuka_ryo
    tsuka_ryo 2016/04/08
  • 反抗なきロックの時代

    若い時分、僕の周囲にはロックミュージシャンしかいなかった。アマチュアからベテランまでたくさんの人たちと関わって、たとえば「ミュージシャン」と「芸能人」の間にある微妙な差だとか、フリーランスの演奏家として生きていく彼らの職業意識だとか、そういうものを学ばせてもらっていた。概して彼らは低姿勢だったけど時によっては「ロック」な立ち居振る舞いで、彼らの語る70年代や80年代の武勇伝を聞きながら、さすがにビール瓶で頭を殴られて流血こそしなかったものの、これでも時代はマシになった方なのだろうな、と感じていたものだ。 いいとか悪いとかの話ではなく、それはある環境が生み出した生き方だったのだと思う。そして、産業化され、大きな市場になっていた90年代の音楽シーンにおいては、衝動的な自己表現が溢れた結果としてのロックの居場所は、かつてよりは小さくなっていた。「マス」という存在を意識できる演奏家たちは、その変化

    反抗なきロックの時代
  • プラットフォーム戦略としてiTunes Matchを考える

    連休前に発表されたiTunes Matchの日展開。意外だったという人も多いようだけど、最近ちょうど講義なんかでAppleの戦略について扱っていたこともあって、すんなり腑に落ちたというのが第一印象。要するにウェブのクラウド化を背景に、多くのアクターがプラットフォーム戦略による自社のコア・バリューの上昇を狙っていて、今回の話もその一環だと考えればいいのじゃないかと。 プラットフォーム戦略とは、ウェブ経由で提供されるサービスを基板にして、多面的に市場の外部性を獲得しながら、自社の収益源となっている製品/サービスの付加価値を増大させようというものだ。市場の外部性とは、利用者が増えれば増えるほどサービスの利用価値が上がるというもので、Appleについて言えば、多くの楽曲が提供されていることでiTunes Storeの付加価値が高まるということを指す。さらに、利用価値のあるサービスにはユーザーが集

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    tsuka_ryo
    tsuka_ryo 2014/05/03
  • 時間は有限だが可能性は無限だ

    35歳になった。統計上は「若者」の定義から外れる年齢ということになろうか。正直なところ若いか若くないかという感覚そのものが鈍っているので、そういわれてもあまり感慨はない。一応、今年で物書きとしてお金をいただくようになってから、つまりデビューしてから10年ということになるのだけど、歴史というか社会的な風潮の目安としてのディケイドと、自分の人生の中の10年というのは同じ物差しでは測れないわけで、こっちも「へえ」くらいの感想だったりはする。 35歳問題、という奴にも直面しそうな気配はない。自分の人生を振り返れば、なれたはずの自分、失わなくてもよかったはずの関係、今なら選ばないはずの大事な選択は、山ほど数え上げられる。けれど、もうここに至るまで何度も何度も後悔して懺悔して諦めて開き直ってまた後悔してを繰り返してきた僕にとって、「取り返しのつかないこと」が持つ重みなんて、いまさら突然増えるはずがない

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    tsuka_ryo
    tsuka_ryo 2011/04/17
  • あなたの欲望に寄り添うなら « SOUL for SALE

    一年を振り返って今年は大変だったなあと思うのは、きっと年の瀬がすごく静かで穏やかな人の特権で、それどころじゃないよ仕事だよ、って人も、このサービス社会にはたくさんいる。高度に消費社会化が進むと、今日くらいはお金で買えるサービスに頼らずに家族や友人、近隣の人々と過ごそうぜって人がいなくなるというか、そういう人たちを家から追い出してお金を使わせようとする誘惑が増えていくからだ。 もともとそういう誘惑にはあまり魅力を感じない方で、だからといって年越し蕎麦とおせちが大好きってわけでもなくて、昨年と同じことを書くけれど、要するに僕にとって年末は単に自分の死に思いを馳せる時間なのであって、無理矢理にでも孤独になる必要があるのだ。というわけで、原稿までひとしきり片付けて、何もすることがなくなったことにして、ぼんやりと一年が死ぬ瞬間を待っているのである。 消費社会化と同じ理屈で、僕たちはどんな瞬間にも「し

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  • 資源の有限性と共同体

    誰かの人生を支えるために自分の人生を犠牲にすることを、美しいと思う人もいるけれど、自分がやれと言われたらいやがる人が大半なんじゃないかと思う。そこに愛があればいいとか思っていても、いつまでたっても成功しないバンドマンをわせてる彼女さんというありふれた構図にすら、僕らはちょっとした抵抗を感じる。なぜだろう。おそらくそれは、彼女さんに、彼をわせることをやめたり、他の男を選んだりする自由意志があるはずだという、言い換えれば、彼女さんにも他の人生があるはずだという僕らの思いに由来する感情だ。 しかしまあ、実際にそういう人に接してみると、よく言えば健気、少し悪く言えば好きでやってるんじゃん、という人が多い。だから、心配しないで、なんてことも言う。そういう人たちの中には、自分の能力に限界を感じている人が少なからずいて、自分はいいから、誰かの夢を叶えることが自分の夢だなんて思っていたりもする。 こう

    tsuka_ryo
    tsuka_ryo 2010/07/29
    男性は人生をあきらめてくれる女性に依存し、都会の人は人生をあきらめて共同体のために奉仕する農村・漁村の人々や、途上国の人々が作る資源に依存して生きている。
  • 自由であれ、と看守は言った

    「schola 坂龍一 音楽の学校」がすごく面白い。もともとはcommonsmart内で公開されているプログラムのようなのだけど、中高生(小学生も!)を「生徒」として迎え、ゲストらとの鼎談やセッションも加わる豪華な構成。10数年前、「Love Love あいしてる」が始まった頃、日のポップスを支えたミュージシャンたちをバックバンドに従えたKinki Kidsがめきめきと上達していくのを見ながら「きーっ」とか思ってた人は多かったろうけれど、それを凌ぐ贅沢さだ。 内容も、幅の広さがウリのcommonsmart版とは違い、バッハの平均律から和音、コードとその思想的背景をめぐり、ジャズ編では複雑化するビバップのコードからモード奏法、そしてフリージャズへ、という、ザ・教科書通りの展開。こうした一連の流れを、中学に上がる頃には父に聞かされていた僕にとっては、懐かしい気持ちもあり、あるいはもう少しウ

    tsuka_ryo
    tsuka_ryo 2010/06/05
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