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法と思考に関するtsuneaki02のブックマーク (2)

  • 第1話 どうしたら正義を語ることができるのか - 草野耕一のあまり法律家的でない法律論:日経ビジネスオンライン

    さすがはヘーゲル。見事なメタファー(隠喩)だ。しかし、比喩が美しいからといって主張が正しいとは限らない。他の学問分野はいざ知らず、少なくとも法律学はミネルバのふくろうに課された宿命とは無縁の存在だ。 法律学は巷(ちまた)に生起する諸問題を同じ時代・同じ空間に生きる人々の手によって解決するためのアート(技芸)だからである。国家間の争いから家族間の争いまで、あらゆるレベルの紛争の論点を整理してそれを平和裡に解決すること、それが法律学に与えられた使命であり、絶対的真理を求めて歴史の終焉を待つ余裕などあるはずがない。 問題の実践的解決能力、それこそが法律学の真髄であり、この働きがあればこそ法律学は有用な学問としての評価を長年にわたり享受してこれた。ところが、最近に至り状況が変わった。少なくとも私にはそう思われる。たとえば、社会問題を論じる各種のフォーラムで積極的に意見を述べる者の多くはエコノミスト

    第1話 どうしたら正義を語ることができるのか - 草野耕一のあまり法律家的でない法律論:日経ビジネスオンライン
  • 74. 人より拡声器に似ている人は始皇帝にも似ている。:日経ビジネスオンライン

    (a)は(b)(c)から見ると、 「作品を特定の方向からしか見ることができない唐変木の野暮天」 です。この(b)(c)が長いあいだ一般的な文学論の立場でした。 ところが1980年代以降日でもさかんになったジェンダー論の立場からすれば、吉行淳之介の小説などは、たとえ市民社会のお堅い性道徳から逸脱していても、他方で男尊女卑・家父長制といった近代の「見えないしきたり」からは逸脱せず、むしろそれらにのうのうと守られつつそれらを再生産しているわけで、むしろ逸脱が足りない、という話になる。(b)(c)だって 「作品を特定の方向からしか見ることができない唐変木の野暮天」 じゃないか、というわけです。まったくもってそのとおりだ。 こういう見かたが可能になって、私たちはかなり立体的に、自分の頭を使って、さまざまなコンテンツを見ることができるようになりました。言い換えれば、在来文学論の(b)(c)が、コンテ

    74. 人より拡声器に似ている人は始皇帝にも似ている。:日経ビジネスオンライン
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