気になる記事をスクラップできます。保存した記事は、マイページでスマホ、タブレットからでもご確認頂けます。※会員限定 無料会員登録 詳細 | ログイン (前回から読む) 「対他・存在」としての愛 すでにみてきたように、サルトルは「第三者なるものの出現は、二人の愛の破壊である」[1]と語ったのだった。それは第三者が登場することで、二人の親密な世界が破壊されるからという意味だけではない(破壊されるのはたしかなのだが)。愛する者どうしが親密な世界に閉じこもっているつもりでいても、つねにそこに第三者が存在するからだ。 それは「わたしたちが二人きりで、わたしの部屋にいて、事実として〈二人きり〉であるとしても、それは権利として〈二人きり〉であることではない。実際に誰も私たちを見ていないときにも、私たちは、すべての意識個体にとって存在している」[2]からである。愛する者どうしも、自らの意識から他者の存在と