(37)に戻る 満州に日本人が残した名建築の数々。それは当時の内地(日本)をライバル視するのではなく、「世界」を目指したものだった。デザイン、アイデア、耐久性、利便性…世紀を越え、いまなお、現代中国で使われている建築物が多いのが何よりの証拠であろう。 担い手の中心は、満鉄(南満洲鉄道)の若き社員建築家たちであった。 日本の満州経営の中核となった満鉄は鉄道だけでなく、炭鉱、製鉄、ホテル、調査などの事業・業務を手広く行い、昭和12(1937)年までは、地方行政の担い手として学校や病院を運営していた。 だから、満鉄の社員建築家が手掛けた建築物も駅舎に始まって、各地のヤマトホテル、学校校舎、病院、図書館、社宅…と驚くほど幅広い。「満鉄建築」と称される建築物だ。 日本人が坂の上の雲を目指し、近代国家への道を猛スピードで駆け上っていたころ、満州は日本の「生命線」であり「ショーウインドー」だった。才能と