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2010年2月2日のブックマーク (5件)

  • Jürgen Habermas says he’s not on Twitter | Jonathan Stray

    Over the last several days there has been considerable hubbub around the notion that pioneering media theorist Jürgen Habermas might have signed up for Twitter as @JHabermas. This would be “important if true”, as Jay Rosen put it. Intrigued, I tracked him down through the University of Frankfurt. I succeeded in getting him on the phone at his home in Sternburg, and asked him if he was on Twitter.

    tukinoha
    tukinoha 2010/02/02
  • ★★『最果てのイマ』試論(完) - 仮想算術の世界

    ここまで記してきたように、僕たちはさしあたり二種類のメタテキストを区別することができる。ひとつは神話の言葉、すなわち世界に内在する構造を発色させるマーカーのような言葉である。ここでは、ドゥルーズ『消尽したもの』の概念を借りて、前回同様それを「言語Ⅰ」と呼ぶことにしよう。この場合、言葉は現実の対象と結びついているわけではない。したがって、リアリズムの言語ではない。そのかわりに言語Ⅰは、見逃されがちな構造を発見するヒューリスティックな性質を濃密に帯びている。しかも、言語Ⅰは必ずしも狭義の「言語」に限定されるわけでもない。 たとえば、現代のアートで使われる記号は、その性質において限りなくこの「言語Ⅰ」に近づいている。デュシャンやケージは、美術や音楽の記号がこれまでアートとは見なされてこなかった対象とこそ親密な関係を築きうること、あるいは否応なく築かざるをえないことを示してきた。しかし、それは往

  • 『最果てのイマ』試論(3) - 仮想算術の世界

    夏目漱石のいくつかの小説の文体は、視点を二重化すること、つまりオブジェクトレベルの視点とメタレベルの視点を巧みに同期させることで成立する。したがって、それは三人称の超越的な視点でもないし、当事者の視点だけを純粋化するものでもない。柄谷行人はその特殊な文章を「写生文」と呼んだが、僕の造語でいけば、写生文とは《構造的感受性》を備えた文章だと言い換えることができる。そこでは、構造は徐々に、あるいは予期せぬかたちで与えられるしかない。そして、構造が一度に成立しないところでは、意味はしばしば遅れてやってくる。漱石の小説の「唐突さ」にある種の合理性があるとしたら、それはテクストの一部分に蓄えられた未完の構造、すなわち《仮想的構造》が時宜を得ないうちにいきなり発動しはじめるからに他ならない。それは写生文の性質に基づいている。詳しい分析は省くが、おそらくは『それから』や『道草』といった作品にそういうヴァー

  • 『最果てのイマ』試論(2) - 仮想算術の世界

    心に実体的な記述を与えるということは、パフォーマティヴなものをコンスタティヴに読み替えることを意味する。しかし、実際にはそれは虚構なので、毎回異なる解釈がそのつどの時代に流布することになる。心はそういうコンスタティヴな記述によってかりそめに定着させられる。ここには、一種の倒錯がある。たとえば、心は物理的事象に還元できると強硬に主張する論者(最近ではジェグォン・キムのように)は、まさにその振る舞いによって「心」に宿るパフォーマティヴなものを露わにしてしまっている。心が物理の結果にすぎないのならば、そもそも最初から心について何も語らなければいいのに、彼らはかたくなに心というものの実在を還元論的に証明しようとする。その所作には、心の科学的証明とは別の、つまりはコミュニケーション論や言語行為論で語られるべき問題が根づいている。心とは、まずはコミュニケーションの成立条件のひとつなのだ。あるいは、ひと

  • 『最果てのイマ』試論(1) - 仮想算術の世界

    ずっとやりそびれていた『最果てのイマ』(Xuse)をようやくクリア。前々回のエントリーでは傑作と書きましたが、これはなんというか、「怪作」。 …というわけで、いくつか考察サイトを回ってみると、細かいつじつまをきちんと読み解いているサイトがけっこうあって驚く。正直いって、この作品の複雑に入り組んだ構造をぜんぶ脈絡をつけて理解できたわけではなかったので、確かにいろいろ参考にはなった。とはいえ質的な問題は、つじつまがあうか否かというよりも、作品全体が語りかけてくる「何か」なのであって、もちろん細かい詮索もあっていいが、それだけでは大樹を見失うおそれがある。確かに「謎解き」の欲望をかきたてる作品だし、あるいはよく言われるように田中ロミオ氏の文体も一級品だが、そこだけ見てわかった気になるのはつまらない。 もっともこの作品の真価は、ある意味では、「大樹」以上にむしろいわば「枝葉」の部分、つまりふ