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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/f-ryota (8)

  • 貧しき「文化の思想」 - 仮想算術の世界

    このあいだから『リトバス』について何度か触れている。だが、僕としては、どれだけ言葉を弄しても何かどうしようもない苛立ちを感じて仕方がなかった(まぁパソコンともども暑気にやられていたから……というのも否定しない)。実際、『リトバス』という作品は、麻枝准年来の「反転」の小細工だけで成り立っているところがある。確かにそこにはある種の状況介入的なものもあって面白いのだが、他方で、それをどうしようもなく安易ではないか、と思ってしまう自分もいる。だからこそ、しつこく書かざるをえなかったというのが正確だ。 その理由はあるていどはっきりしている。以前からこのブログでは、ゲームと構造主義の類縁性について触れている。簡単に言えば、ゲームというのは(もっとも抽象的に定義するならば)「変換のシステム」であり、構造もまた同じなのだ。しかし、この点については前々からひとつの問題があった。それはゲームの無意味な「変換

  • ナルシシズムの変質? - 仮想算術の世界(福嶋亮大)

    宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』の書評などいろいろ書いてました。書評は来月掲載される予定です。 宇野さんのは、連載で読んでいたときとはだいぶ印象が違って、いろんな意味で面白かったし刺激になりました。「雑誌で読んだし、買おうかどうしよう」と思っている方は、一度書店で手に取られることをおすすめしておきます。決して社交ではなく(笑)これは読まれるべき力作です。 ただ、書評を書くのはかなり大変でした。発売前からこんなにネットで「書評」が出てるは他にないし、一応最初はネット上の言論をチェックしようと思っていたのですが、とても把握しきれないので諦めたというのが実情です。というか、そういう新しい言論空間こそが宇野現象の質だと思うので(ちなみにニコ動と初音ミクとらき☆すたと宇野常寛は同じ何かを共有しているというのがぼくの考えなんですが)、書評もそのあたりに触れつつ書いています。 * それで

    tukinoha
    tukinoha 2010/05/27
    なるほど、そういう考えなのか。
  • モノとしての記号 - 仮想算術の世界

    知り合いに放映中の『ハルヒ』のエピソード「エンドレスエイト」がいいと聞いて、選挙速報の傍ら、録画をまとめて見てみました(そういえば最近あんまりアニメ見てなかった)。4回連続で同じ話をループしているというやつ。 ご覧になった方はわかると思いますが(詳しい説明は面倒なのでしません)、このループは明らかに、長門視点から見た世界を示している。で、僕はそこがかなり批評的でいいと思いました。長門はもともと、他のキャラとはまったく別の時間性を持って動いているキャラです。特に今回はハルヒと対比されていてそこが面白い。 ハルヒは定期的にイベント(祭り)を欲するキャラです。夏休みのお決まりのイベントをこなしていく今回のハルヒは、特にそういう欲望を全面化させている。それに対して、長門はそういう「ハレ」の時間性を持たない。彼女は、人間社会の祭式の時間性とは全然違うロジックで動いている。今回にしても、何の変化も

  • ★★『最果てのイマ』試論(完) - 仮想算術の世界

    ここまで記してきたように、僕たちはさしあたり二種類のメタテキストを区別することができる。ひとつは神話の言葉、すなわち世界に内在する構造を発色させるマーカーのような言葉である。ここでは、ドゥルーズ『消尽したもの』の概念を借りて、前回同様それを「言語Ⅰ」と呼ぶことにしよう。この場合、言葉は現実の対象と結びついているわけではない。したがって、リアリズムの言語ではない。そのかわりに言語Ⅰは、見逃されがちな構造を発見するヒューリスティックな性質を濃密に帯びている。しかも、言語Ⅰは必ずしも狭義の「言語」に限定されるわけでもない。 たとえば、現代のアートで使われる記号は、その性質において限りなくこの「言語Ⅰ」に近づいている。デュシャンやケージは、美術や音楽の記号がこれまでアートとは見なされてこなかった対象とこそ親密な関係を築きうること、あるいは否応なく築かざるをえないことを示してきた。しかし、それは往

  • 『最果てのイマ』試論(3) - 仮想算術の世界

    夏目漱石のいくつかの小説の文体は、視点を二重化すること、つまりオブジェクトレベルの視点とメタレベルの視点を巧みに同期させることで成立する。したがって、それは三人称の超越的な視点でもないし、当事者の視点だけを純粋化するものでもない。柄谷行人はその特殊な文章を「写生文」と呼んだが、僕の造語でいけば、写生文とは《構造的感受性》を備えた文章だと言い換えることができる。そこでは、構造は徐々に、あるいは予期せぬかたちで与えられるしかない。そして、構造が一度に成立しないところでは、意味はしばしば遅れてやってくる。漱石の小説の「唐突さ」にある種の合理性があるとしたら、それはテクストの一部分に蓄えられた未完の構造、すなわち《仮想的構造》が時宜を得ないうちにいきなり発動しはじめるからに他ならない。それは写生文の性質に基づいている。詳しい分析は省くが、おそらくは『それから』や『道草』といった作品にそういうヴァー

  • 『最果てのイマ』試論(2) - 仮想算術の世界

    心に実体的な記述を与えるということは、パフォーマティヴなものをコンスタティヴに読み替えることを意味する。しかし、実際にはそれは虚構なので、毎回異なる解釈がそのつどの時代に流布することになる。心はそういうコンスタティヴな記述によってかりそめに定着させられる。ここには、一種の倒錯がある。たとえば、心は物理的事象に還元できると強硬に主張する論者(最近ではジェグォン・キムのように)は、まさにその振る舞いによって「心」に宿るパフォーマティヴなものを露わにしてしまっている。心が物理の結果にすぎないのならば、そもそも最初から心について何も語らなければいいのに、彼らはかたくなに心というものの実在を還元論的に証明しようとする。その所作には、心の科学的証明とは別の、つまりはコミュニケーション論や言語行為論で語られるべき問題が根づいている。心とは、まずはコミュニケーションの成立条件のひとつなのだ。あるいは、ひと

  • 『最果てのイマ』試論(1) - 仮想算術の世界

    ずっとやりそびれていた『最果てのイマ』(Xuse)をようやくクリア。前々回のエントリーでは傑作と書きましたが、これはなんというか、「怪作」。 …というわけで、いくつか考察サイトを回ってみると、細かいつじつまをきちんと読み解いているサイトがけっこうあって驚く。正直いって、この作品の複雑に入り組んだ構造をぜんぶ脈絡をつけて理解できたわけではなかったので、確かにいろいろ参考にはなった。とはいえ質的な問題は、つじつまがあうか否かというよりも、作品全体が語りかけてくる「何か」なのであって、もちろん細かい詮索もあっていいが、それだけでは大樹を見失うおそれがある。確かに「謎解き」の欲望をかきたてる作品だし、あるいはよく言われるように田中ロミオ氏の文体も一級品だが、そこだけ見てわかった気になるのはつまらない。 もっともこの作品の真価は、ある意味では、「大樹」以上にむしろいわば「枝葉」の部分、つまりふ

  • 神話が考える - 仮想算術の世界

    こんにちは。年もよろしくお願いいたします。 当はこのブログももう少し更新頻度を上げたいのですが、いまいちエンジンがかかってこないので、当面は去年の後半のようなペースでぼちぼち書いていくことになりそうです。気長にお付き合いいただければ幸いです。 さて、もはやネットでは旧聞に属する話で恐縮ですが、年明けはakinator.comというキャラ当てサイトでちまちま遊んでいました。各所で話題なので説明は要らないかもしれませんが、要はあらかじめ好きなキャラをひとり思い浮かべ、そのキャラについて髪の色や長さ、男女の別、超能力の有無その他の設問に20問ほど答えると、かなりの確率でそのキャラを当ててくれるというものです(ちなみに実在の人物も登録されています。試しにやってみたら、王心凌やら王力宏やら台湾アイドルも網羅されていて、それもけっこうすごい)。有限の質問でここまでキャラを正確に識別できるとい

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