1923年8月7日、東京の東両国にある薬種商の長男として生まれた。小学校の頃から算数に秀でており、成績は上位だった[2]。近くにあった国技館に通い、相撲も得意としていた[3]。1936年に池田が東京市立第一中学(後の東京都立九段高等学校)に入学すると、背が高かったためバスケットボール部に勧誘された。中学5年の1940年の全国大会では全試合ダブルスコアで優勝した[3]。学業では数学の才能を認められ、特別な指導を受けた[3]。 1941年、バスケット部のOBから誘われて旧制浦和高等学校(後の埼玉大学)を受験し、進学した。12月には太平洋戦争が始まったが、1942年の全国大会は実施され、浦和高校が優勝した[4]。翌年以降は中止され、バスケット部は廃止された。1943年に大学を受験し、東京工業大学電気工学科に入学した[5]。 1946年に富士通信機製造株式会社(1967年に富士通と改名)に入社した