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平安時代に関するtweakkのブックマーク (9)

  • 寝殿造2.1 寝殿造の全体像、堀河殿

    寝殿造の全体像の例として堀河殿の復元図(太田静六1987復元)をあげておく。ある程度の史料的根拠があり、これから説明する要素も揃っているからである。 第一に、寝殿造でもっとも史料が残るのは東三条殿だが、堀河殿はそれに次ぐ。 第二に、世間一般ではこれぐらいのものが寝殿造と思われている。 第三に、東三条殿は来の左右対称が崩れだした姿と云われるが、堀河殿はそれに比べれば一般の左右対称イメージに近い。 世間一般では寝殿造というと『源氏物語』の六条院復元図のイメージが強いが、あの復元図にはさしたる根拠はない。『源氏物語』が架空だからではなく、『源氏物語』の六条院に書かれていないものが復元されているからである。私は堀河殿をもって「これこそが寝殿造」などと云うつもりは無いが、六条院復元図を使うよりはましだろう。 なおこの屋敷は東三条殿と同様に南北2町の敷地であり最上級寝殿造の中でもトップクラスである。

    tweakk
    tweakk 2024/03/11
    “『栄華物語』では天禄2年(971)の項に堀河殿を新造したとあり、天禄4年(973)2月には娘?子(こうし)を円融天皇へ入内させている。…堀河殿は里内裏となった最初の屋敷でもある。貞元元年(961)7月26日のこと”
  • 平安京跡ストーリーマップ

    ここでは、平安京跡に関するコンテンツを画像・地図とともに公開しています。

    平安京跡ストーリーマップ
  • 土御門東洞院殿 - Wikipedia

    土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)は、平安京左京北辺四坊二町に所在した里内裏。土御門殿とも。正親町南・東洞院東・土御門北・高倉西の1町4方を敷地としていたことから正親町殿とも呼ばれ、現在の京都御所の原形となった。 南北朝時代の土御門東洞院殿。 平安時代[編集] 堀河天皇が即位前に御所としていたことが知られている[1]。その後、長承2年(1133年)に藤原忠実の娘泰子が鳥羽上皇に入内するに先立ってその御所として修造された。その後泰子は鳥羽上皇の皇后に冊立され、保延6年(1140年)に女院(高陽院)となった彼女の御所として正式に定められ、「土御門殿」「正親町殿」と呼ばれた。高陽院の死後、ここは藤原邦綱の邸宅となったが、仁安2年(1167年)に六条天皇が、安元3年(1177年)に高倉天皇が、短期間ながら里内裏として用いている[2]。 鎌倉時代[編集] 建久2年(1191年)以後、土

    土御門東洞院殿 - Wikipedia
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    tweakk 2024/03/10
    “現在の京都御所の原形。…1133年に藤原忠実の娘泰子が鳥羽上皇に入内するに先立ってその御所として修造。1140年に彼女の御所として正式に定められ、「土御門殿」「正親町殿」と呼ばれた”
  • 土御門内裏 - Wikipedia

    土御門内裏(つちみかどのだいり)は、平安時代の後期、平安京左京1条3坊9町に存在した里内裏。鳥羽天皇から3代の天皇の里内裏として用いられた。土御門烏丸殿、土御門室町殿とも。現在の京都市上京区鷹司町付近にあたる。 元は源師時の邸宅であったが、治天の君白河院の近臣であった蔵人頭藤原顕隆の提案で新たな里内裏として改築が行われた。その際に「屋舎如大内」(『台記』久安3年3月22日条)、すなわち大内裏を模倣して造作され、配置や建物の名称も大内裏のものをそのまま採用した。 永久5年11月10日(1117年12月5日)、鳥羽天皇が初めてこの内裏に入り、保安4年(1123年)にはここで崇徳天皇へ譲位し、そのまま内裏として用いられた。保延4年11月24日(1138年12月27日)に火災で焼失。再建されて、2年後の保延6年11月より再び内裏となり、永治1年(1141年)には同所にて崇徳天皇から弟の近衛天皇に位

    土御門内裏 - Wikipedia
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    tweakk 2024/03/10
    “平安時代の後期、平安京左京1条3坊9町に存在した里内裏。鳥羽天皇から3代の天皇の里内裏として用いられた”
  • 平安京オーバーレイマップ

    このページは、京都市平安京創生館(京都アスニー1階)で公開されている「平安京跡イメージマップ」を、現在の地図上に配置したものです。このマップは、同館に常設展示されている平安京復元模型が現在の京都とどのように重なっているかを示したものです。 凡例にある※ご注意を確認の上、ご覧ください。利用にあたっては個人の責任でご使用下さい。 表示したプロット情報は、平安京および京都の歴史文化を学ぶために、大学および公共機関で作成され、すでにWEB公開されているものを扱っています。 地図画面の右上にあるスライダーを左右に移動させると、平安京マップの透明度を任意に変更できます。

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    tweakk 2024/03/10
    これ詳しくてよいね! “このページは、京都市平安京創生館(京都アスニー1階)で公開されている「平安京跡イメージマップ」を、現在の地図上に配置したものです”
  • 平安京・現代京都複層地図

  • Heiankyo_kyoto_layermap

  • https://www.amazon.co.jp/dp/4044007268

  • をしへて! 佐多芳彦さん ~平安時代の貴族はどのように学んでいたの? - 大河ドラマ「光る君へ」

    https://www.nhk.jp/p/hikarukimie/ts/1YM111N6KW/blog/bl/ppzGkv7kAZ/bp/p5lL6mvYG5/ 大河ドラマ「光る君へ」第9回で、大学寮へ学びに行くことになったまひろ(吉高由里子)の弟・藤原惟規(高杉真宙)。平安時代の貴族がどのように勉強していたのかについて、風俗考証を担当する佐多芳彦さんに伺いました。 ――大学寮がどのようなところなのか教えてください。 大学寮は律令制における官庁の一つで、官吏を養成するための教育機関になります。学生(がくしょう)は原則的に、五位(ごい)以上の貴族の子弟、史部(ふひとべ)という文書や記録の作成などをつかさどった氏族の子、そして、八位(はちい)以上の官人の子弟の志願者です。当時の官吏はすべて男性ですから学生もすべて男性で、入試のようなものはありません。13歳~16歳で入学し、基的に寮内の寄宿舎

    をしへて! 佐多芳彦さん ~平安時代の貴族はどのように学んでいたの? - 大河ドラマ「光る君へ」
    tweakk
    tweakk 2024/03/05
    “漢文学のプロを目指す人であったら紀伝道(きでんどう)、法律家を目指す人であったら明法道(みょうぼうどう)というように、何を目指すのかによって専攻が分かれる”
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