Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■
FF10の話。第2回。 最初の話は以下。 ■ FF10の話(1) - それは1991年から始まった 1991年当時、データイーストで『メタルマックス』を作っていた桝田さんから日記の話とかコマゴマと断片的に聞いてた、僕はワクワクしながら『ヘラクレスの栄光Ⅲ 神々の沈黙』のプレイを始めたわけだけど… 最初に書いておくと、ゲームの出来は相変わらずのDECOゲーだった。 操作性はヨロシクないし、バランスは変だし、グラフィックも素晴らしいとは言いがたい。 だけど、そんなことは僕にはどうでも良かった…というとウソになる。 気になった。ものすごくイロイロ気になった。 SFCのRPGとして見た時、既に『FFⅣ』が発売された後のRPGとしてみると、かなり微妙な出来だったと思う。 SFCは画面モードが複雑な上に、いろいろ扱いづらくて、めんどくさいことが多かったので、当時(1992初頭)のノウハウでは厳しかった
2X年ぶりに、あーそいや、こんなものもあったなあということを説明したわけだけど、もうちょっと詳しくここで説明しておきたい。 まず原理的な話から。 当たり前だけどCDROMは、例えばROMの形を変形させるようなことは通常しない。正方形のCDROMなら作ることは出来るかもしれないが、まあ普通は作らないだろう。 次にCDROMの規格はフィリップス=ソニー(当時)によって物理的なフォーマットが規定されており、それから外れることは基本的に出来ない。 また当然ながらCDROMのマスターは、どこで作っても同じだ。 つまりCDROMは汎用品でプロテクトなどかけられないので、PCエンジンのCDROM BIOSをリバースエンジニアリングすれば、ハドソンやNECの許可無くPCエンジンCDROMのゲームを作ることが出来てしまうのだ。 (これはもちろん1988年の話を書いている) この問題を解決するためにハドソン=
当然ソフトもあってhu7用のBIOSのバイナリ、BIOSのシンボルファイル、ユーテリティ的なPCエンジン用のソース、あとCDエミュレータ、CDに書き込むソフト、CDからテープにバックアップ/レストアするソフト、ADPCMのエンコードソフト、などがセットに入っていたはず。 ここで時代的に説明しておかないといけない話を一つ書いておく。 現在ではCDROMだろうがDVDだろうが、マスター(工場でプレスするデータ)はBD-RもしくはDVD-RもしくはCD-Rで提出するのが常識だが、PCエンジンのCDROMのマスターはほぼ全てMT(8ミリビデオテープ)で提出していた。 というのも、最初はCD-Rが存在しなかったから。当たり前だが、存在しないCD-Rでマスターを入れられるわけはない。 そして当時、CDROMのマスターの方法として一応確立されていた方法はいくつかあったが、ハドソンが選んだのはExabyt
Twitterでメモ書きした話をもう少しちゃんと残しておこうと思った。 ただの記憶でしかなく、細かいところに間違いがある可能性は十分にあるが、大枠は間違っていないはず。 25年前(1989年の初頭だったはず)、僕は自分のデビュー作、さいきょーRPG『凄ノ王伝説』の宣伝で、マル勝ファミコンの座談会に出してもらえることになった。この座談会は1988年冬~1989年初頭のゲーム業界で、言うまでもなく1988年2月に出た『ドラゴンクエストⅢ』で空前のRPGブームが来ていた、まさにRPGの全盛時代といっていいタイミングで行われていた。 僕自身はというとPCエンジン版の『イースⅠ・Ⅱ』の制作に入る前で、さくまセンセイのところでどんちゃんに叩きのめされる前だったと思う。 自分のゲームに対する考え方とアプローチは『イースⅠ・Ⅱ』の制作に入るまでの2ヶ月ほどで激変するのだけど、こんときはまだゲームを作るプロ
彼は疑いもない天才、超越的なドット屋+α、今で言うならアートディレクターだったと思う。 また反面、本当に社会人としてはダメなやつで…例えば、彼と初めて会ったときの話は 山根ともおとの出会い に書いたけれど、本当にそこに書いてあるとおりで、全く社会人の常識をわきまえていない…というか、気にしていないというか、まあ困った男だった。 しかも山根は社会人としてはまるで破綻しているムチャクチャなエピソードが山のようにある男だった(その一端はイースの話や、さまざまなところで書いたけど)。 例えば1989年にあったトマトのエピソードなんかもすごい。 イースを作っているとき、山根は並行して何かの仕事を請けていたらしいのだけど、それでトマトが必要になり、慌ててトマトを買ってきた。で、トマトを机の上の作業用ボードに置いて絵を描いた。 そこまではいい。 そして山根はそのまま北海道に来てイースを作って、数週間ぶり
いろいろあって、えらく間が開いたけど、続き。 前回書いたとおり、イース1と2のレベルを統合すると決めた以上、バランスは完全に取り直さなければならなかったが、このときには「バランスを取り直すことが出来る」という自信はあった。 というのも、凄ノ王伝説で痛い目にあったあと、桝田さんと会って、結構長くつきあった結果、バランスの取り方にはっきりとした方針が出来上がっていたからだ。 凄ノ王伝説を作る前、自分はTRPGのゲームマスターなどをやっていたし、アマチュア時代に大量にゲームを作っていたこともあり、バランスを取れると思っていた。 だが、実際にRPGを作ってわかったことは「バランスの取り方なんざ、まるでわかっていなかった」ということだった。 デビュー作の凄ノ王の戦闘システムは、距離の概念のあるタクティカルコンバットで、おまけにプレイヤーのアクションが行動ポイント制のシステムだ。 当時主流だった対面型
前回書いたことでTwitterで聞かれた「サターン版ではフィーナを助けなくても良かったのはPCエンジン版では必須になっていたけど」という話。 あまりに簡単だったのですっかり忘れていたが、確かにそうだった。 フィーナもオリジナルのパソコン版では助けるのは必須ではない。 当たり前のことながら、全くマズいので宝箱の鍵をフィーナに持たせたのだが、考える必要もないぐらい簡単な改訂だったので、改訂したことすら忘れていた(苦笑) 記憶というのは面白いもので、一度思い出すと、ちゃんと芋づるで出てくる。 進藤が「フィーナ助けずに神殿をクリア」して嬉しそうな顔をして僕を見てて、山根がポカーンとした顔してるのに「こんなの簡単だよ、フィーナに宝箱の鍵を持たせりゃいいんだよ」というようなセリフを言った記憶が出てきた。(『宝箱の鍵が宝箱に入っていること自体がかっこ悪い』と思っていたのは間違いない) もちろん、自分が記
イース1・2はビジュアルや声優や音楽について書かれる事が多く、インゲームグラフィックについてはパソコン版を忠実に再現したと書かれる事が多い。 これは意図したことであったが、実はマップのグラフィックは違う…というか、大幅にグレードアップされている。 まずスペックからして違う。 パソコン版は1ドット8色で128チップ(一つのマップが128種類のパーツで組み立てられているということ)に対し、PCエンジン版では1ドット16色で256チップが割り当てられている。しかもオリジナルはデジタル8色だが、PCエンジンは512色から16色使えて、背景だけでカラーセットを16個使うことが出来る。 表現力が全く違うわけで、比較の対象にならないほどディテールアップされているのだが、当時PCエンジンとパソコン版の両方をプレイしている人間のほとんどはパソコン版を忠実に再現したと思ったようだ。 これは記憶色と同じで、パソ
WikipediaにイースシリーズやイースI・IIの項目がある。 この項目は、当時を知っていた人間(多分関係者(笑))が書いたと思われる話が結構載っているのだが、昔の話について「文献がない」だのとケチをつけられており、読んでいて悲しくなってしまった。 だいたいWikipediaの主張する検証可能性なんて話を始めると、この当時のゲームを作っていた人間の話なんて、みんな検証不可能だ。 ほとんどは口伝の伝説みたいなもんである。 検証可能な話と出来ない話は腑分けして「これは検証不可能な話です、もしかしたら嘘かも知れません」と但し書きをつけておけばいいだけで、検証可能性自体が自分たちの可能性を狭めていることに気がつかないのかと言いたくなるが、まあいいや。 と、むかっ腹がたったのと同時に「真実を知っている人間は減っていく」ルールがあるので、1988-89にイースシリーズに関係した人間の1人として、当時
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