資料に関するumehoushiのブックマーク (74)

  • Feminism - Wikipedia

    Feminism is a range of socio-political movements and ideologies that aim to define and establish the political, economic, personal, and social equality of the sexes.[a][2][3][4][5] Feminism holds the position that modern societies are patriarchal—they prioritize the male point of view—and that women are treated unjustly in these societies.[6] Efforts to change this include fighting against gender

    Feminism - Wikipedia
  • 内閣府男女共同参画局

    2024年9月10日10/19(土)「災害対応の現場に女性が参画するためのヒント~能登半島地震における経験から~」(@ぼうさいこくたい2024)を開催します。参加者募集中! 2024年9月10日広報誌「共同参画」9月号を掲載しました。 2024年9月6日令和6年度「女性に対する暴力をなくす運動」について掲載しました。 2024年8月23日男女共同参画センターにおける業務及び運営についてのガイドライン作成検討ワーキング・グループ(第5回)の議事録を掲載しました。【開催日:8月5日(月)】 2024年8月13日広報誌「共同参画」8月号を掲載しました。 2024年8月5日男女共同参画センターにおける業務及び運営についてのガイドライン作成検討ワーキング・グループ(第5回)の議事次第・配布資料を掲載しました。【開催日:8月5日(月)】 2024年7月31日「令和5年度 ジェンダー統計整備状況調査」報

  • ジェンフリ・バトン - kmizusawaの日記

    Wikipediaに掲載されていた、教育行政におけるジェンダーフリー実践の実例(とされてるもの)について、フェミニストはどう考えるのかという話から。発祥の地はこちら。 クラス名簿を男女混合にする。 特に問題があるとは思えない。問題があるとすれば今まで別だったのを一緒にするのに手間がかかるとか健康診断の際などは別にしないといけないのでそこも手間というくらいだろうか。しかしそういうのは一度フォーマットができてしまえばたいした手間ではないような気もする。大学に行けば混合名簿が当たり前なんだし、実際上も、混合にしとけば男女別名簿のときにありがちな「名前が紛らわしくて男子なのに女子の列に入れられ、教員も生徒もきまりわるい思いをする」というようなこともなくなるだろう(女子で「美」や「実」で終わる名前で男子に間違えられた人もけっこういると思う)。そもそも男女混合名簿は、男女別名簿ではほとんど常に「男子が

  • Klein Bottle :: Hatena

  • Apes! Not Monkeys! ジェンフリ・バトン

  • *minx* [macska dot org in exile](5月21日)

    khideaki さんの「フェミニズムのうさんくささ」という文章をきっかけにいくつかのブログで反論があがっている件についていくつかコメント。これまでの議論の経緯はここで全部示さないけれど、トラックバックをたどれば分かるはず。 ポイント1:「極論としてのフェミニズム」批判の無意味 khideaki さんは、フェミニズムは基的には正しいとした上で、このように言う。 たとえ善意から出発したフェミニズムであろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違えるというところに僕はうさんくささを見る。 わたしからみると、うさんくさいのはむしろ「善意」をやみくもに肯定してしまうことであり、「極論にまで達すれば論理的に間違える」ことではない。だって、「極論にまで達しても間違えない」思想なんてあるわけがないもの。もし「極論としてのフェミニズム」の問題を批判するのであれば、フェミニズムが他の思想や運動と比べて

    *minx* [macska dot org in exile](5月21日)
  • ジェンフリ・バトン - 猿虎日記

    mojimojiさんのジェンフリ・バトンに勝手に答えてみる。http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20060520/p3 クラス名簿を男女混合にする。 「男女混合名簿」という呼び方自体にバイアスがかかっている。それをいうなら、「普通の」男女別名簿は、「五十音混合名簿」とか呼ぶべきだろう。 しかしむしろ、「クラス名簿」の前提となっている、強制的なクラス分け自体を廃止すべきだろう。さらには、年齢差別である学年分け、入学の年齢制限、さらには、教師と生徒の区別なども、廃止すべき。こうした現行のものとは全く異なる学校は様々な人によって構想されている。コリン・ウォード『現代のアナキズム』にしたがってそのいくつかを見てみよう。 例えばバクーニンの「権威の原理が根絶されている学校*1」は「それはもはや学校ではなく、生徒も教師も区別のない、大衆が自由にやって来て、必要があれば自由に学

    ジェンフリ・バトン - 猿虎日記
  • 成城トランスカレッジ!メガネさんのための解説。

    数学屋のメガネさんへの再批判。」というエントリーを書いたところ、秀さんから「反批判」と銘打ったトラックバックをいただきました(「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 1)。その内容は、「反批判」というよりはむしろ「いくつかの論点についてもっと詳述を希望します」というような内容だと思っています。言いたいことは随分ガッツリと書いたと思っていること、および現在オフラインで結構忙しいことこともあって議論を延々と続ける分けにはいかないという理由などから、論旨に関する質問等のやりとりであれば適当なところで打ち切らせていただけると幸いですが、今回はとりあえずレスポンスさせていただきます。 chikiさんからもらった批判(「数学屋のメガネさんへの再批判。」)を読んで驚いた。これは、実に見事な批判だ。と言うと何か敗北宣言をしているようだが、初めてまともな批判をもらったという驚きと、これだけ見事な

    成城トランスカレッジ!メガネさんのための解説。
  • フェミニズム理論の逸脱する可能性 - 数学屋のメガネ

    単語に過剰反応して文脈理解をしない者がいるので、冒頭に一言断っておくが、これから述べることはフェミニズム一般の批判ではない。フェミニズムの理論において、正しい範囲のものが、いかにして誤謬に転化していくかという過程的構造について考察しようと言うものだ。 真理と誤謬を対立した二つのものとして、相容れない固定化したものと考える人には、真理が誤謬に転化すると言うことは理解が難しいかも知れない。しかし、真理というものが、ある対象に対する認識において判断として存在することを理解するなら、その対象と認識との関係から、条件を逸脱して誤謬に転化する可能性があることが分かる。それが真理と誤謬との弁証法的関係だ。 三浦つとむさんは、人間の認識に誤謬が伴うことを必然的なものとして質と捉えた。誤謬というのは、頭が悪かったり・能力がなかったりすることで引き起こされるものではない。人間の認識がある種の制限を受けている

    フェミニズム理論の逸脱する可能性 - 数学屋のメガネ
  • ジェンダーへの疑問 - 数学屋のメガネ

    竹村和子さんは『フェミニズム』(岩波書店)の中で、ジェンダーについて語っている。ジェンダーは普通次のように考えられている。 「生物学的な所与の性差と考えられている「セックス」と比べ、「ジェンダー」はセックスの差異の上に構築される「社会的・文化的な性差」、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」だと理解されている(この因果関係に対しても、後に疑義が突きつけられる)。」 ジェンダーにとっては、社会というものが重要なキーワードになる。このジェンダーに関しては、フェミニストの間でもまだ意見が分かれている部分があるそうだ。それは後ほど見ることにしたいと思うが、僕は、ジェンダーの考え方そのものの中に論理の逸脱の危うさを感じるところがある。 竹村さんは「人は女に生まれない、女になる」というシモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉を引用しているが、僕はこの言葉の解釈に、拡大解釈を生みかねない危うさを感じる。女というの

    ジェンダーへの疑問 - 数学屋のメガネ
  • 事実としての『フェミニズムの害毒』 - 数学屋のメガネ

    僕は、フェミニズムの持つ論理の暴走性というものに注目をし、それに気をつけなければ真理が誤謬に転化するのではないかという、第三者的な視点を提出しているのだが、どうもフェミニズムの側にいる人にはそれがひどく気に入らないようだ。 どのトラックバックを見ても、フェミニズムにそのような論理的な暴走性はないということは書かれていない。フェミニズムはそのような主張はしていないとか、実際にフェミニズムが暴走した実例を提出せよというようなことは書かれていた。 そこで仕方がないので、林さんの『フェミニズムの害毒』から、林さんが暴走した逸脱したフェミニズムが引き起こした害毒だと受け取っていることを事実として提出してみたが、林さんからの引用というのがまた気に入らなかったようで、これも「フェミニズムではない」という言葉が返ってきたようだ。 どうも論理が通じない相手と論理的な会話をするのは難しい。僕が論じているのは、

    事実としての『フェミニズムの害毒』 - 数学屋のメガネ
  • 「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 1 - 数学屋のメガネ

    chikiさんからもらった批判(「数学屋のメガネさんへの再批判。」)を読んで驚いた。これは、実に見事な批判だ。と言うと何か敗北宣言をしているようだが、初めてまともな批判をもらったという驚きと、これだけ見事な論理展開を見せてくれたchikiさんに、正直言って非常に尊敬の念を抱いている。しかし、だからなおのこと、納得するまでこれに反批判を送りたいと思う。 chikiさんが、途中で嫌気がさすようなら無視していただいてもかまわないが、これだけ見事な論理を語る相手と議論が出来るならば、こんな素晴らしいことはないと思っている。 まず納得出来ないことの第一だが、「「フェミニズム」をひとつの統一主体であるかのように論じること&求めることの問題点」と語られている部分だ。僕は、あのエントリーで、冒頭に語ったように、行き過ぎたフェミニズムということを考察して、論理的に逸脱する可能性というものを考察している。だか

    「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 1 - 数学屋のメガネ
  • 「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 3 - 数学屋のメガネ

    さてchikiさんの「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判の続きだが、まずは次のようなものから始めよう。chikiさんは、僕の提起を 「極端なフェミニズムの登場→正当なフェミニストが是正しない→誤解の蔓延→自分のような噴きあがりが続出→ムキー」 という単純な図式で解釈しているが、もしこのような単純な図式で受け取っているとしたら、「フェミニズム」という言葉が陥っている強い偏見と誤解を払拭するのはかなり厳しいだろう。 僕は行き過ぎたフェミニズムをいちいち訂正して回れなどと言うことは一言も言っていないと記憶している。そんな風に受け取れるような記述があれば、僕の文章表現のミスだろうと思う。無意識の中にも、そのような考えはないとかなり自信を持って言える。なぜなら、そんなことをしても少しも偏見の解消にならないと思っているからだ。 間違ったフェミニズムは、フェミニストが是正しないから蔓延するの

    「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 3 - 数学屋のメガネ
  • 内田樹の研究室: うなぎくん、小説を救う

    2024 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 2023 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 4月 - avril 5月 - mai 6月 - juin 7月 - juillet 8月 - août 9月 - septembre 10月 - octobre 11月 - novembre 12月 - décembre 2022 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 4月 - avril 5月 - mai 6月 - juin 7月 - juillet 8月 - août 9月 - septembre 10月 - octobre 11月 - novembre 12月 - décembre 2021 1月 - janvier 2月 - février 3月 - mars 4月 - avril 5

  • 「行き過ぎた」のはいったいどちらか - *minx* [macska dot org in exile]

    続きになるけれど、khideaki さんの「行き過ぎたフェミニズム批判としての『フェミニズムの害毒』」について。 まず、善意から出発したはずの思想が自己目的化して暴走することを懸念しているはずの kideaki さんが、こともあろうに「家族を守る」というまっとうな「善意」から出発してフェミニズム全否定という全体命題に到達してしまった林道義氏の主張を「行き過ぎたフェミニズムの害毒」として読めば良い、みたいに救済してしまうのは、一貫性に欠けるように思う。フェミニズムの「行き過ぎ」にイデオロギー的に反対するのではなくその「行き過ぎ」を理由に批判するのであれば、「反フェミニズム」の「行き過ぎ」も同様に批判するのが筋ではないだろうか。 khideaki さんは言う。 実際にはフェミニズムというのは、その論理構造からいって、常に行き過ぎる可能性をはらんでいるのである。だから、行き過ぎに注意していないと

    「行き過ぎた」のはいったいどちらか - *minx* [macska dot org in exile]
  • 批判対象と同じ問題を抱えた「極論としてのフェミニズム批判」 - *minx* [macska dot org in exile]

    khideaki さんの「フェミニズムのうさんくささ」という文章をきっかけにいくつかのブログで反論があがっている件についていくつかコメント。これまでの議論の経緯はここで全部示さないけれど、トラックバックをたどれば分かるはず。 ポイント1:「極論としてのフェミニズム」批判の無意味 khideaki さんは、フェミニズムは基的には正しいとした上で、このように言う。 たとえ善意から出発したフェミニズムであろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違えるというところに僕はうさんくささを見る。 わたしからみると、うさんくさいのはむしろ「善意」をやみくもに肯定してしまうことであり、「極論にまで達すれば論理的に間違える」ことではない。だって、「極論にまで達しても間違えない」思想なんてあるわけがないもの。もし「極論としてのフェミニズム」の問題を批判するのであれば、フェミニズムが他の思想や運動と比べて

    批判対象と同じ問題を抱えた「極論としてのフェミニズム批判」 - *minx* [macska dot org in exile]
  • 可能性(可能無限)とイズムの暴走性 - 数学屋のメガネ

    瀬戸智子さんから「論理学の勉強」というトラックバックをもらった(ライブドアブログで)。コメント欄に書き込もうと思ったのだが長くなりそうな気がしたので一つのエントリーとして立てることにした。 「すべての命題は相対的である。」という言葉の意味を解釈すると、これは、すべての命題には真になる場合もあれば偽になる場合もあるということになる。これは、「すべて」という言葉で語っている世界が、どの世界なのかで違ってくる。 「すべての命題は相対的である。」という命題は、形式論理の世界では成り立たない。形式論理の世界では、一度真だと決めた命題は、永久に真でなければならない。相対性はないのである。必ず偽になる命題は「矛盾」と呼ばれるが、形式論理の世界では「矛盾」が真になることはない。もしそのようなことが起こったら、形式論理の世界そのものが破綻する。 しかしひとたび形式論理の世界を離れて、現実の対象を扱う弁証法論

    可能性(可能無限)とイズムの暴走性 - 数学屋のメガネ
  • 告発のための告発 - 数学屋のメガネ

    ブログになる前の楽天広場では、かつて著作権法の違反を摘発することが流行っていた頃があった。当時はまだインターネットも大衆的な開放がされたばかりの頃で、よく知らなかったり慣れていなかったりする人たちが、著作権のある映像を無自覚に自分の日記に貼り付けていたりしていた。 それに対して、啓蒙する意味で親切に教えているのなら、この著作権法違反の摘発も、僕はそれほど違和感を感じなかったと思うが、どうもそれは啓蒙的ではなく、むしろ摘発して告発すること自体が目的ではないかと思えるようなものが多かった。 他人の欠点を指摘して、自分がそれを諭すような立場に立ったときに快感を覚えるという種類の人間がいるのだなとその時僕は思った。そのような快感を感じる人間にとっては、著作権法というのはまったく便利な法律だという感じがした。何しろ違反かどうかは極めて分かりやすい。だからその指摘は簡単に出来るし、何しろ法律だから、自

    告発のための告発 - 数学屋のメガネ
  • 論理学の勉強 - 瀬戸智子の枕草子

  • フェミニズム運動が目指すものは - 瀬戸智子の枕草子

    いつも意見を交換しあっている数学屋の秀さんが、 今日のエントリーでもフェミニズムのうさんくささと言う私にとっては、なかなか考えさせられるタイトルの記事を書いていらっしゃいました。 そこで私も、もう一度二年前のフェミニズム運動についてと言う記事を思い出したりしてずっと考え続けていました。 「フェミニズム運動」。 18世紀欧米で活発に論議された近代自由主義思想の申し子として、産声を上げた「フェミニズム運動」。 「女性の自由・平等・人権を求める」ことから端を発し、 その枠内にとどまらず近代自由主義パラダイムそれ自体のもつ構造的矛盾さえ明らかにしていった歴史と実績を持っているフェミニズム運動。 そして近代/反近代の枠を超えたポストモダンと共通の問題意識を持ちながら、 それさえ乗り超えようとしているのだが、、、 しかし現実には、男女に関わらず一人ひとりが体験し、一つひとつの例があまりに違いすぎるため

    フェミニズム運動が目指すものは - 瀬戸智子の枕草子