東北はこの5年間で取材、観光、ボランティア合わせると100カ所以上訪れてることになると思うんだけど、「ここにも来てんの?」「こ、こんなとこにも⁈」と思うのは、AKBと糸井重里さんと小泉進次郎議員なんだよなー。小さい定食屋とかお土産屋に色紙や写真がどこにでもぽこぽこ貼ってある。
0 LINE Interview:Naoki Serizawa Photo:Masanori Naruse 2011年3月11日、かつてない未曾有の災害が日本を襲ったあの日。 一寸の躊躇もなくすぐさま日本へと駆けつけ、僕らを勇気づけてくれたアンダーワールド。あの日のことを忘れてはならない。 今だからこそ振り返る、あの日、あの時間に込められた思い…… 震災から5年が経ったいま、改めてカール・ハイドに話を訊いた。 東日本大震災により、日本はかつてないほどのダメージを受けた。 それは被災地だけでなく、日本全国多くの人が傷つき、打ちひしがれていた。 余震が続き、そのたびに津波の不安に苛まれ、さらには原発事故による放射能の深刻な問題。 インターネット上では情報が錯綜し、国外へと避難する人すらいた。 なにを信じてよいのか? 当たり前にあった普通の生活は戻ってくるのか? 誰もがそんな不安が常につきまとう
2011年3月11日午後2時46分、横田基地にある在日米軍司令部。バートン・フィールド司令官は、第5空軍の面々と会議を開いていた。「いつもとは違う大きな揺れ」に、建物から外へ飛び出した。 揺れが収まるのを待ち、全ての在日米軍基地に異常がないか確認するよう指示した。問題は他からやってきた。11機の米民間航空機が羽田、成田両空港が閉鎖されたため、横田基地へ向かうというのだ。 慌ただしくジョン・ルース駐日米大使に電話をした。だが、連絡が取れず、携帯電話も不通だった。折木良一統合幕僚長、ハワイのロバート・ウィラード太平洋軍司令官らとも連絡を取り合った。その直後に、最初の民間機が横田に飛来した。 福島第1原発の1号炉付近では爆発が起き、フィールド司令官らには「損傷の程度や、他の炉が同様の状況にあるのかどうか、分からなかった」。 頭はせわしなく回り始めていた。「事態がさらに悪化したら、どう対応するのか
東日本大震災からまもなく5年。「3.11」について多くのメディアが継続的に特集を組む一方、その翌日に長野と新潟の県境で発生した、名もなき震災は広く知られていません。気象庁による正式な命名がなかった大地震。最大震度6強を記録した長野県下水内郡の栄村(さかえむら)の当時を振り返ります。 のちに長野県北部地震(別名:栄村震災、新潟・長野県境地震など)と通称される大地震。同村では3人が犠牲(災害関連死)になったほか、計3回の強い揺れで住家694棟、非住家1048棟が損壊、雪崩や土砂崩れで3集落が一時孤立するなど甚大な被害が出ました。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く