「男らしさってなんだ?」という素朴な問いが「パスする=バレないための技術」の議論に。 パスする一つの方法として、「元の性別の特徴を打ち消すこと」が有効であることが見えてきます。 さらに、このトランスのやり方はXジェンダーの身体違和やジェンダー違和の解消に通ずるものがあったのでした。 やがて議論は「なぜそんな方向に向かう人々が出てくるのか」に収束して行きます。
![「男も女も目指さない」Xジェンダーは否認の表明?](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/a3432d54c0304e06ef188100c1d3d202b24d4a39/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fs.togetter.com%2Fogp2%2F246953efb9c3cc710b209e25a4e393db-1200x630.png)
男女論になるとよく「主語が大き過ぎる」という指摘が出る。「男とは」「女とは」という語りによって、現実には多様な男や女を一括りにしている、一般化してしまっているという批判だ。「私はここには含まれない」「こうじゃない人もいる」という意見も時々出る。 そういうことを言われるたびに、「男とは」「女とは」と言っただけで何故「すべての男」「すべての女」を指していると思うのだろうと疑問をもつ。生物学的な意味での男/女に必ず共通しているのは、それぞれ男性/女性の身体を持っている、ということだけだろうにと。 「男とは」を例にとってみよう。「男とは」話で言われるところの「男」は、文脈によって二種類ある。 一つは、「多くの男は」「男の全体的な傾向として」という話だ。大抵は「女の全体的な傾向として」という話と比較するために書かれる。そう書くだけのサンプルや統計資料、それに準ずるものがあり、尚かつ例外はあるに決まっ
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