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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (11)

  • チベット問題をどういう視座で分析するべきかー教条左翼の限界ー - 我が九条

    どこからかのリンクで「比較的マシなサヨでもこの程度なんだわなあ/「アリバイ的」ってw 」(「http://c.2ch.net/test/-/asia/1205846520/297」)と言われた。「マシなサヨ」と言われたのは光栄なことだが(笑)、反省すべき点もある。そもそも共産党という既成左翼に「アリバイ的」にでもチベット問題に関する声明を期待した私がバカだった、としか言いようがない。少し考えれば分かることだが、そもそもロシアマルクス主義を止揚できていない日共産党にチベット問題を考えることなどそもそも期待するだけ無駄だったのだ。 比較的チベット問題に関する事柄を主張している共産党の支部(「ポラリス-ある日共産党支部のブログ チベット自治区暴動への対応 中国政府の対応は誤り!」)でも「中国政府は、この「暴動」を単なる暴力行為として警察権を行使して取り締まれば済むはずではなかったか? 何故「

    チベット問題をどういう視座で分析するべきかー教条左翼の限界ー - 我が九条
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    urahayate 2008/03/25
  • 戦う相手はどこか - 我が九条

    私たちブロガーが戦うべき相手は何か。レイシズムを煽るネットウヨクか。反日を煽るブサヨか。人によってはそれらこそが戦うべき相手かも知れない。しかし私は最近主要な戦場はそこにはないように思えてきた。私はどちらかと言えば左派にカテゴライズされるだろうし、私自身左に偏向していることは自覚しているがゆえに、保守派に対して批判的言辞を弄してきたのは事実である。しかし最近私は左派ー右派以前にブロガーにとっての戦場があるように思えてきた。だから最近では保守派ブログに対する批判を止めた。そもそも私ごとき小物に批判されたとて、何ら痛痒を感じないだろうし、だからこそ先方に甘えて批判もしてきたのだが、私のやってきたことはあまり意味がないのではないか、少なくとも私がなすべきことは他にあるのではないか、と考え始めた。それはここ半年足らずのことである。 ブロガーである私がなすべきなのは、ネット上における言論を阻害する「

    戦う相手はどこか - 我が九条
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    urahayate 2007/10/24
  • 東京都知事選雑感 - 我が九条

    浅野史郎候補に入れた人が「俺は石原は選んでないぞ」と思うのは、全く正論である。そして選挙結果に無力感を感じるのも当然である。この点外山恒一候補が絶妙の言い回しをしている。「多数決をやれば多数派が勝つ」と。そうなのだ。 問題は非都民である私が、「都民はバカな選択をした」と石原氏が勝利した選挙結果について東京都民を批判することは生産的ではない、という点である。今回の選挙結果の総括はまずもって反石原陣営の闘い方の問題点を考えるべき問題であり、石原都政に入れたことについてとやかく言ってもどうにもならないだろう。 そしてtakanofumio氏が的確に指摘している(2007-04-08 - The World according to takanofumio)通り、問題は「教育問題」だったはずだ。私が共産党の今回の行動について不信感を募らせているのは、彼らから教育問題についてどうするべきなのか、とい

    東京都知事選雑感 - 我が九条
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    urahayate 2007/04/12
  • 東京都知事選の結果の感想 - 我が九条

    私は東京都民ではないので今回の選挙結果について論評する資格はない。思いつきを少々。 もし私が東京都民だったら、今回外山恒一候補に「やけっぱちの一票」を入れるか、まじめに浅野史郎候補に入れるか悩んだと思う。そして投票所で「外山恒一」と書きたい欲望を抑えて、かろうじて「浅野史郎」と書いて午後8時過ぎに腹の底から「外山恒一」と書かなかった己を悔いる、と。 私は石原氏の政策には賛成しないし、まず「石原慎太郎」と書くことはあり得ない。しかし都民がそれを選択したのであれば仕方がないだろう。国旗国歌「強制」について反発している層はおそらく総出で「浅野史郎」と書いたはずだから、「国旗に起立、国歌斉唱」は当然というのが多数派の民意だった、ということだ。それは直視しなければなるまい。もし東京都教育委員の方針に反対で「石原慎太郎」と書いたとすれば、それは「アホ」だ。東京都教育委員会の方針に賛成で「浅野史郎」とか

    東京都知事選の結果の感想 - 我が九条
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    urahayate 2007/04/12
  • 珍しいことではない - 我が九条

    伊吹文明文部科学大臣「大和民族がずっと日の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。極めて同質的な国」(2007年) 麻生太郎総務大臣「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日のほかにはない」「今は(世界各地で)人種、地域、宗教でいろんな争いが起きている。日は一国家、一文明、一文化圏で、そういう国はあまりない」(2005年) 鈴木宗男衆議院議員「(日は)一国家、一言語、一民族といっていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、今はまったく同化されておりますから。」(2001年) 平沼赳夫衆議院議員「小さな国土に、一億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国。日が世界に冠たるもの」(2001年) 中川義男参議院議員「(日は)小さな国土に、1億2千6百万人のレベルの高い単一民族でぴちっと詰まっている」(2001年) 山崎拓元副総裁「一民族、一国家、一言語の日の国の

    珍しいことではない - 我が九条
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    urahayate 2007/02/27
  • いじめ - 我が九条

    今ホットな話題といえば、藤田東吾社長が官邸に押し掛けたことだろう。もっともマスコミからは黙殺されるだろうが、ワイドショーか週刊誌位は取り上げるか。しかし私がそれについて何か言及できるか、と言えばできない。 そこでもう一つホットな話題。いじめ。 塾でも当然いじめは存在する。ただ塾が学校と違うのは、塾でのいじめは塾の存亡にかかわる、ということだ。「あそこの塾はいじめを放置した」という話が広まれば、塾生は雪崩を打って辞めるだろう。悪い話は一瞬にして広まる。だからいじめの問題は放置できない。 もっとも塾では生徒の自主的な時間は少ない。行き帰り位だが、そこでいじめられている、というのもあり得るが、それは塾が関わるべき問題ではなくなっている。彼らの私生活までこちらは介入できない。塾も生徒も親もそれは了解している。問題は塾にいる時間である。学校が難しいのは、学校は生徒の全人格を管理するものと意識されてい

    いじめ - 我が九条
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    urahayate 2006/10/21
  • アラン・ケイの危惧 - 我が九条

    パソコンの父と呼ばれるアラン・ケイ氏のインタビュー「http://itpro.nikkeibp.co.jp/a/it/alacarte/interview0703/alan_7.shtml」を読んだ。 印象に残った部分を引用する。 多くの人は、コンピュータを使って何かを学ぼうとしていない。単に楽しんでいるだけだ。来は、人がアイデアを生み出す道具として発明されたはずが、娯楽の一部になってしまっている。こうしたポップ・カルチャーは危険だ。みんなが愚か者になる恐れがある。それは基的に無知な文化であり、過去を振り返ったり未来を見通すことなく、その場・その時だけを刹那的に体験することに忙しくなりすぎている。(中略) マクルーハンは、1950年代にこう予言している。「電子によるコミュニケーションに、書くことを避ける能力が加わったとしたら、それは世界を旧文明化へと歩ませる導火線になることだろう」と。

    アラン・ケイの危惧 - 我が九条
  • 昨日のエントリの補足 - 我が九条

    少し気になったので補足。コメント欄は書きにくい。へたれなんでそこは容赦あれ。 彼の言動が、「言論活動」と呼ぶに値する代物でしょうか?「自称ネット右翼」が存在するとソースを挙げずに主張し、根拠を求められても一切答えず、コメント欄がどうとか関係のないことを言って質問者を嘲笑して煽る。挙句の果てには「他称」を「自称」と言い張ったり、「ネットイナゴ」だの聞いてもいないことをえんえんと連呼する。僕も言論活動を守ることは支持しますが、ダブスタと脳内ソースを指摘することが「言論活動の破壊」と言われると、それは違うと思います。そういうのも、「自由な言論」として、批判せずに容認しなければならないのでしょうか? 私はえっけん氏がどのような論を展開してきたのか、それは知らない。ただ一つわかるのは、えっけん氏は自分のブログで持論を展開してきた、という事実だ。その持論がどのようなものであれ、「言論活動」である。自分

    昨日のエントリの補足 - 我が九条
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    urahayate 2006/06/07
  • ネットイナゴ - 我が九条

    いやなものを見てしまった。私と同じ研究分野の若手研究者がネットイナゴをやっているのだ。多分名前聞いたら知っているヤツだろうな。これ、学会にばれたらしゃれならんで、ほんま。 追記。知ってるヤツでしたOTL。 「ネットイナゴ」という用語、越後屋氏の「http://d.hatena.ne.jp/ekken/20060525」が定義をもまとめておられる。それによると、以下のようなものだ。 * 自分の意見と異なる主張をする者に対して、相手の考えが変わるまでコメントを続ける者 * 自分が直接コメントスクラムに参加しなくても、それを焚き付ける行為をする者 * 他人のサイトが「炎上」するのを見て喜ぶ者 * 「炎上」しているブログに対し、尻馬にのって罵倒コメントを残す者 * それが恥ずべき行為ということを分かっていない者 * 単なる荒らしと異なり、コメントの際に意味不明な単語の羅列などは行わない 従来の「ネ

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    urahayate 2006/06/06
  • 社会という科目 - 我が九条

    私の脳内では好評だった国語受験法の続編、社会科受験法を考察してみたい。ちなみに私は社会と国語しか教えたことがないので、英語と理科と算数・数学は永遠に出てこない。 中学受験の社会科は、地理分野・歴史分野・公民分野に分けられる。大学では地理学と歴史学は文学部、公民のうち倫理も文学部、政治は法学部または政治学部、経済は経済学部または経営学部、そして社会学部は何となく公民分野のどこか、詳しくは知らない。ごめんなさい。 だから近年文部省(当時)は高校以上で社会科を解体して地歴科と公民科に分けてしまった。文学部で歴史学を学んだものがいうのは何だが、社会科解体、というのは歴史学にとっては大きな出来事だった。 まだ中学受験では「社会科」だが、これもいつ変わるかわからない。「教育」現場は常にイデオロギー闘争の場であり、生々しいイデオロギー闘争が行われている。「社会科」解体もその一つだろう。特に小学生で「生活

    社会という科目 - 我が九条
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    urahayate 2006/05/23
  • 塾講師のつぶやき: [国語受験術]国語の特性

    石原千秋氏は『国語教科書の思想』(ちくま新書)の中で次のように述べる。 国語はすべての教科の基礎になるような読解力を身に付ける教科だとか、豊かな感性を育む教科だとか、そんな風に考えている人がいるとしたら、それは「誤解」である。現在の国語という教科の目的は、広い意味での道徳教育なのである。したがって国語ができるということは道徳が身に付いているということを意味し、読解力が身に付いたということは道徳的な枠組みから読む技術が身に付いたということを意味するのだ。 国語で点を取らせるには、そういうことを徹底させる必要がある。国語における「正解」とは、学校教育で「道徳的」とされることに沿った解答のことなのだ。 対策として二通りのアプローチがあるだろう。一つは学校教育で「道徳的」とされる考え方を完璧に身に付けさせるやり方だ。骨の髄まで「道徳」を身に付ければ、苦労なく「正解」にたどり着ける。その前提としての

    塾講師のつぶやき: [国語受験術]国語の特性
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