1953年8月の小倉開催でデビュー。飯原農場の出身である[5]石崎修を鞍上に、初戦こそ2着とクビ差の辛勝だったものの、以後11月に京都で出走を終えるまでレコード勝ち1回を含む無傷の8連勝を記録。内容はいずれもスタートで先頭に立ってからの逃げ切り勝ちというものだった[4]。翌年からタマサンは「ダイナナホウシユウ」と改名され、騎手も所属厩舎の主戦騎手・上田三千夫に替わることになった[4]。 4歳となった1954年3月に復帰。2着に大差(10馬身以上)をつけて逃げ切り勝ちを収め、このころより「褐色の弾丸列車」という異名が冠されはじめる[4]。4歳クラシック初戦・皐月賞を見据えての東上戦でも大差勝ちを収めた[4]。なお、この2戦の公式記録は「大差」であるが、山野浩一著『栄光の名馬』によれば、それぞれの着差は15馬身、24馬身とされる[6]。 皐月賞。スタートから先頭を奪うダイナナホウシユウ(上)、