その後、三代目山口組若頭・地道行雄の舎弟となった。 昭和39年(1964年)、山口組・田岡一雄組長の盃を受け、田岡一雄の若衆となった。 昭和43年(1968年)、若頭補佐に就任した。 昭和46年(1971年)に山本健一が三代目山口組若頭に就任し、小田は山口組本部長に就任した。 昭和48年(1973年)、小田と織田組・織田譲二組長(本名は伊藤豊彦)は、東亜友愛事業組合と交渉し、東亜友愛事業組合沖縄支部(支部長は、宜保俊夫)を、山口組直系とした。 昭和50年(1975年)7月26日深夜、大阪戦争が勃発した。 昭和51年(1976年)4月、山本健一、小田ら山口組幹部8人は資本金6千万でビル管理を主業務とする「東洋信用実業」を設立し、役員となった。東洋信用実業は、「山口組会館」(後の四代目山口組本部)を建設した。また、それまで山口組幹部が田岡一雄の名代として使う慶弔の費用は、田岡一雄から出ていたが